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オランダ・オープン・ソサエティと日本クローズド・ソサエティ(08.03.21)

フランスも模倣したという<ステム・ウェイザー>(インターネット上の投票アドバイスプログラム)
−−−−オランダ人が発明した大衆政治防止策???

・難民政策を巡る非常事態の背景と経過
      一般赦免の過半数支持とVVDの孤立


アヤーン・ヒルシ・アリの国籍問題とフェルドンク移民・国民統合相の対応
     バルケンエンデ第二政権の挫折の原因


イスラム教社会の民主化と人権保護の可能性:対立か和解か
      WRR報告書『イスラム行動主義のダイナミズム』とその波紋

ベアトリクス女王のロビイング

ドナー発言:オランダ人の宗教観と社会観

・移民問題とオランダ民主主義(ポルダーモデル)の行方

    ハンス・ウィーヘルとアヤーン・ヒルシ・アリの喧嘩が意味するもの


独立の研究が社会の利益を守る
「CPBオランダ経済政策分析局」の仕事と立場


やっぱりヨーロッパは進んでいるからという溜め息をはく人へ 

D66の攻防 オランダ政治の行方 (05.04.13) 

テオ・ファン・ゴッホの暗殺とその後―――オランダの「寛容」と自由主義の行方 (04.12.20)

二党制の文化と多党制の文化(04.12.20)

ミリウネンノタの漏洩、そしてデモへ (04.10.07)

ピースツアーの大学生と日本軍の犠牲者との対話 (04.09.25)

(1999年10月−2004年9月)
* オランダ語サイトのオンライン翻訳は、ここここから出来ます *
オランダ・オープンソサエティと日本クローズド・ソサエティ(08.03.21)

 いじめられる子どもがいていじめる子どもがいる。

 いじめは日本だけの現象ではない。

 自我というものにやっと目覚め、少しずつ自分探しをしている子どもたちには、他者を尊重する力もまだ未熟だ。だから、学校や家庭では、大人が子供を人間として尊重しなければならないし、そうされることによって、子どもたちもまた、少しずつ他の人を尊重することを学んでいく。

 「オランダでもいじめはありますか」と聞く教育学者がいるからたまげてしまう。あって当たり前なのだ。問題は、いじめが起こった時に、すぐに対策を取っているか、また、大人たちが自分たちの態度を見直しているか、という点で、多分オランダと日本の間には大きな違いがあるのではないか、と思う。

 

 オランダの大半の小学校には、学校要覧の中に「いじめプロトコル」を明記している。いじめを防止するために学校はどうしているか、いじめが起きた時に、学校はどういう手順で対策に乗り出すかを明らかに示したものだ。それは、教育監督局が、「学校の雰囲気」として、すべての子どもにとって快適な学びの環境を保障することを学校に義務付けているからだ。日本のように、文科省がきれいごとを並べて、県や市の教育委員会に監督させ、お茶を濁して済ませるようなものではない。監督局のインスペクターが直接学校を訪問し、子どもや親にインタビューして、問題が水面下に隠されたままにならないようにしている。

 ある学校の教室を訪れて授業を観察していたら、担任の先生が、

「あの女の子はグループのほかの子供たちにいじめられているのです。この間、そのことで話をしたばかりです。」と言った。

「どういうふうに話をするのですか」というと、

「いじめている子どもたちと、いじめられている子どもの両方を呼んで、両方の話を聞きます。いじめている子どもたちには、なぜいじめるのか理由を話させ、その場で、いじめられている子どもには、いじめられた時にどんな気持ちかを言葉にして話させます。いじめられる子の中には、いじめられると、自分の感情を言えずに一人で籠ってしまうことが多いけれど、『いや』なことははっきりと『いやだ』と言えることも重要なことなのです」

「、、、いじめは、こうして発見したらできるだけ早く子供たちと一緒に、オープンにして話し合うことが大切です。話し合いをせずに、ただ、規則で『いじめはいけない』というだけでは、子どもたちは、大人の目に触れないところで、陰湿ないじめをはじめてしまいます。」

「人間誰しもそうですが、抑えられればもっとやりたくなるし、禁止されていること、抑圧されていることほど、人目に立たないところでやる時にとても極端で陰湿な行為になってしまいます」

 

 そう、これこそオランダ人のメンタリティだ、と思う。

 なぜ、オランダでは、ソフトドラッグの使用が容認されていて、ポルノショップが認められ、売春が合法なのか。それは、何もかも禁止してしまうと、とんでもない人間性を疑うような極端で猟奇的な行為が、人目に立たないところで起こってしまうからだ。

 

 一昨年の秋、日本に長期滞在したことのある造形アーチストで写真家のヤンニ・レグニルスが、日本滞在中の思い出を旅行記風につづった「雪の降る音」という本(オランダ語)を刊行し、紀行文の賞を取った。その中に、彼女が通っていた日本のアートスクールに所蔵されていた、アート写真集の中で、裸体を素材とした作品の写真が全て検閲官の手で、性器部分を消されているのを発見して驚いた、という個所がある。彼女が驚いたのは、単に、芸術作品がポルノと同じ取り扱いを受けていることだけにとどまらない。彼女の驚きは、こんな風に性風紀を国が主導して厳しく取り締まっているにもかかわらず、日本には、オランダでは到底想像もつかないほどの、異常ともいえる性描写を満載した漫画が蔓延していて、それを取り締まるものはなく、未成年の、まだ、性についても愛についても未熟な子どもたちがそうしたものから歪みきった性行為を覗き見している、しかもそれが放置されているという事実だ。

 オランダに限らず、性意識の変革は、一九六〇年代から七〇年代にかけ、欧米諸国で急速に起こった。冷戦体制の中で、ソ連や東欧の勢力を目の前にして、徴兵制で訓練を受けていた西側ヨーロッパの若者たちは、当時普及したテレビの画面に流される、ベトナムでのアメリカ軍の暴力や、産業発展に酔いしれて環境破壊を顧みない大人たちの欺瞞を見据えていた。性解放への意識、隠されてきた性の問題を、日の光の下で語り合う自由を求めた彼らの心は、道徳や宗教的理念から解放され、人間としてすべての人々が同じように大切に待遇される社会がほしい、と叫んでいた。当時の若者たちが、性意識に著しく目覚めていったのは、性が人間性の根源を成す重要な要素であったからだ。

 オープン・ソサエティは、古い規範を見直し、もう一度、人間にとって何が大切なのかを問い直そうとする議論の中から生まれてきたものだ。そしてオランダが真にオープン・ソサエティを目指し始めたのはこの時代であったと思う。お仕着せの道徳や倫理観ではなく、すべてのことを、タブーをも含めてともにそれぞれが自分の頭で咀嚼し、交換し合う。このプロセスが、人間すべてに普遍の善悪の感情への気づきに人々を導いてくれる。

 クローズドな日本の社会は、今も、社会のありとあらゆる問題を、ひたすら水面下に隠すことで、咄嗟の解決であるかのように自分自身と社会の同法とを裏切り続けている。解決をしたかのようにして本来あるべき議論を後回しにしている。議論などハナからする気はないのだろう。喧嘩はいや、対立はいや、といっていては、いつまでも「和合」「長いものに巻かれろ」の社会から抜け出すことはできない。抜け出せないどころか、ありとあらゆる人々から、「自分の頭で考えること」を奪い、自ら家畜の群れのように行動することを進んでやっても一抹の疑問すら抱かない人々を再生産し続けている。

 感じやすく、人としての感情にウソをつけない子どもたちは、不登校になり、自殺するしかないところにまで追い込まれているのではないのか。こうして、増え続けてきた不登校の子どもたちは、市や県の教育行政の名のもとに、「学校に連れ戻され」る。行政官や教員たち、教育委員会の委員たちは、不登校児の人数が減りさえすれば、あたかも「解決」したかのようにほっと胸をなでおろし、表面を繕ったまま、やがて、自分は役職を退き、人目に立たない問題は解決されないままに後代に受け継がれていく。

 同じことは、性犯罪、いじめ、校内暴力、欝に陥る教員たち、会社員のうつ病や自殺など、すべての社会問題についてもことについても言えるのではないか。

 問題を水面下に隠し、表に出して取り上げオープンに語らない大人社会は、子どもの目に欺瞞に映るとしても仕方がない。こんな社会に希望はない、と自殺する子や大人が増え続けているという今の日本の現実を、いったい誰が本気で変えようとしているのだろう。仮に、何かの歯止めがきいて、自殺にまで追い込まれることがなかったとしても、そういう子どもたちは、やがて、社会に期待せず、社会に参加せず、社会に背を向ける大人になる。バラバラの人たちは、個性を示すこともなく、ただ群れとなり、やがて、ある日、強烈な個性を持つカリスマ的な指導者が来ると、きっと自分で冷静に考えることもなく熱狂的につき従う大衆となるのだろう。いつの日か、そんな大人ばかりの日本社会になっていた日には、、、、? 

 民主主義制度であったにもかかわらず、ヒトラーが選挙民の熱狂的な支持を受けたのは、そういう社会だった。エーリッヒ・フロムが「自由からの逃走」を書いた日、すでに取り返しのつかないほどの人々が、かけがえのない命を絶たれていた。 
 
 実は、もう何年も前から、日本の多くの大人たちは、自分の社会を次世代のためにより良く変えることが、自分が大海に小さな石を投じることからはじまる、ということをあきらめてしまっている。

<ステム・ウェイザー>とは?

 

 この数年間、国会議員選挙や地方議会選挙があるたびに、多くのオランダ人が利用し、この国の政治にも少なからぬ影響を与えているらしいインターネットのプログラムがある。<ステム・ウェイザー>といわれるものだ。「ステム」とは、投票のことで、「ウェイザー」とは、道しるべとか指針という意味がある。「投票の道しるべ」とでも訳したらいいだろうか。

 さて、これは、具体的にどういうものか。
 たとえば、2006年11月22日に行われた、第二院議員選挙で使われた<ステム・ウェイザー>のサイトに行って<スタート>ボタンを押すと、30項目にわたる「主張」がひとつずつ画面にあわられ、利用者は、それに、「賛成」「反対」または「わからない」で答えていく。30項目の「主張」というのは、選挙に出馬している各政党が、選挙プログラムなどで主張している政治的な立場の表明から抽出されたものだ。

 たとえば、「市民は首相を選挙で選ぶべきだ」とか、「雇用者は正規雇用の被雇用者を現在よりも容易に解雇できるようにするべきだ」とか、「安楽死は現状どおり、可能なものとして維持されるべきだ」とか、「二重国籍は廃止すべきだ」「テロリズム対策のためには、市民の個人的な自由やプライバシーは制限されても仕方がない」といった意見表明だ。

 もちろん、これらの意見表明は、この選挙で、政党間の論争点になっているものを集めたもので、このプログラムを利用する一般選挙民は、これらに賛成・反対と表明することによって、それを争点としている政党の立場との一致か不一致かが判断できる、というわけだ。

 <ステム・ウェイザー>では、利用者は、30項目の主張に対する意見を述べた後、さらに、自分が特に重要であると考える政治課題について、追加的なウェイトをかけることができる。また、出馬しているすべての政党の中から、自分自身が到底投票する可能性がない、と考える政党は、チェックをはずして、対象外にすることもできる。

 ここまでの手続きを終えてクリックすると、このプログラムは「あなたに対する投票アドバイスは、00政党です」と、政治主張に一致が多い政党をアドバイスとしてあげ、さらに、一致点の多い政党から、上から順にランク付けをしてグラフで示してくれる。

 また、アドバイス結果として一致点が最も多いとされた政党については、30項目のそれぞれについて、利用者自身の答えと、その政党の答えを並べて、どの点でどのように一致し、どこで不一致なのかを一覧表にしてみることができる。

 さらには、これまで、訪れた利用者全数について、各項目についての解答の統計が一覧表として示され、自分の立場を比べてみることもできるし、利用者たちが主張の中で特に重要と考える「追加ウェイト」がどこに与えられたかを多いものから順に並べてみることもできる。そして、当然ながら、30項目のそれぞれについて、各政党はどういう立場であるのか、を+記号とー記号と?記号で一覧表にしたものも画面上で見ることができる。

物は試しだ。実際にサイトにいって試みて見られるのもよいかもしれない。 


製作しているIPPという機関

 

 この<ステム・ウェイザー>を製作しているのは、IPP(公衆と政治研究所)という機関で、全国的な専門団体だが、特定政党との結びつきは、当然ながら持たない。研究所の目的として、「市民の政治参加と社会参加を推進すること」ということが挙げられている。

 運営資金は、内務省や王室担当相からの助成金のほかに、政府機関や私的機関の委託事業からの収入だ。

 IPPが公開しているウェッブサイトの説明によると、活動内容として、

     政治・社会的テーマでの討論会、集会、ワークショップの推進

     政治決定様式への市民の参加を促進するためのプロジェクトの設置と実施

     市民・政治家・公務員の間の協議やコミュニケーションの新しい形式の開発

     トレーニングやセミナーを通じて、ヨーロッパの政治教育のためのネットワークを拡大し、ヨーロッパ市民の形成を推進

     民主制度において、政治・社会問題を分析する本、雑誌、その他の情報誌の刊行

を行っている、とあり、とくに、

     青少年や(外国からの)新入者の立場、女性や社会経済的に恵まれない状況にある人々の集団に対して、特に強い関心を払う、

     民主的な共同社会の促進のために、国内外の公的機関(国や地方政府)および、個人または団体に属する市民と共同する

と注意書きが示されている。

 

IPPが開発した最初の<ステム・ウェイザー>は、1989年に作られたものだった。当時は、紙の上で質問票に答えていき、その点数によって、どの政党の立場と意見が最も一致するかを計算する、というものだった、という。インターネット上に<ステム・ウェイザー>が登場するのは、1998年からだ。

 

ヨーロッパ域内でも大きな影響力

 

実際、この<ステム・ウェイザー>の存在は、その後、急速に知られるようになり、今では、ほとんどのオランダ人がこのインターネット上のプログラムを知っていると思う。IPPの報告によると、2006年の11月22日の選挙に関しては、470万回使用されたという。オランダの総人口が1600万人であることを考えると、その影響力の大きさが伺われる。現在では、州選挙や市町村の地方議会選挙でも、IPPがそのたびにプログラムを作り多く利用されている。

また、ヨーロッパ域内の他の諸国に対する影響力も大きく、ヨーロッパ議会選挙用の<ステム・ウェイザー>が作られるほか、2005年に行われた「ヨーロッパ憲法」をめぐる国民投票(レファレンダム)でも、「レファレンダム・ウェイザー」が作られている。

ドイツやスイス、ブルガリアで、同様のプログラムが作られて実施されているほか、つい先ごろ行われたフランスの大統領選挙では、IPPが直接に協力したという、<ステム・ウェイザー>とまったく同じ形式のものが、フランス語版で作られていた(Mon Vote a Moi)。

 

<キース・コンパス>という代替版も

 

 <ステム・ウェイザー>が大変な人気で利用されてくるようになった結果、そのアドバイスの仕方を批判して、昨年11月の「第二院選挙」のときには、新聞社「トラウ」とアムステルダム自由大学とが協力し、新たな投票アドバイスプログラムを作った。<ステム・アドバイザー>に対する、オールタナティブ版、というわけだ。

 こちらでは、<ステム・ウェイザー>と同じように、まず、いくつかの主張のそれぞれに、自分の意見を述べていくが、賛成・反対だけではなく、「まったく賛成」「賛成」「どちらでもない」「反対」「まったく反対」「わからない」という比重のかかった選択肢が与えられる。また、現在の政権について、これまでの政治について、「ポジティブ」か「ネガティブ」かの評価を、「国にとって」と「利用者自身の個人的状況」に対する影響という観点から問われる。続いて、各政党の党首についての評価が問われ、その上で、結果が示される。 

 <キース・コンパス>では、2次元の座標図(X軸:右−左、Y軸:進歩的−保守的)の上に、出馬している政党の位置が示された上で、利用者の回答の結果が点で示されるので、自分の位置と他政党の位置を人目で比べることができるのが面白い。

 こちらのプログラムも、<ステム・ウェイザー>と並んで、多くの選挙民の利用があったはずだ。

 また、こうした他の方法と両方を比べてみることで、プログラムそのものの信憑性についての議論も生まれ、より透明な形で、市民の利用に役立つだろう。

 

<ステム・ウェイザー>の効果 

 

 さて、IPPが作ったこの分野では老舗のほうの<ステム・ウェイザー>は、ウェッブサイトの訪問者に、利用の後にアンケート調査を行っており、IPPの委託を受けて、ティルブルグ大学の研究者グループが、その効果についての調査分析をし、これも、インターネットの上で公開している。その報告(Dr.Marcel Boogers,"Enquete bezoekers Stemwijzers", Tilburgse School voor Politiek en Bestuur, Universiteit van Tilburg)によると、11月7日から22日までに<ステム・ウェイザー>を利用した人のうち、8177人がこのアンケートに回答しており、その結果の要点は以下のとおりだ。

1.       回答者のうちの31%が、このプログラムの結果として得られた投票アドバイスによって政党を決めた、と答えている。また、15%(およそ6人に1人)は、はじめに思っていたのとは違う政党に投票することにした、といっている。これについて、この報告書では、「推定では、選挙の結果12の議席が、<ステム・ウェイザー>の利用によって影響を受けたと考えられる」といっている。

2.       <ステム・ウェイザー>の重要な意義として、回答者の45%は、「自分が投票するつもりの政党と自分の意見の一致度を確かめることができる」、また、24%は「どの政党に投票するのが最もよいかを知ることができる」と答えている。

3.       <ステム・ウェイザー>を利用した結果として、53%が「政党間の違いがわかるようになった」、48%が「どんな政治課題が重要なのかがわかった」、46%が「投票政党を決めるのに役立った」、43%が「友人や知人との政治議論をする際の参考になる」 、さらに、43%が「他の政治情報を求めようとする刺激になった」と答えている。

4.       回答者は一般に<ステム・ウェイザー>に満足しており、10点満点で評価すると、平均して7点の評価をしている。

5.       <ステム・ウェイザー>は投票率の向上にも役立っているらしく、12%の回答者が、「投票しないつもりだったが、<ステム・ウェイザー>をすることによって、やはり投票しようと考え直している」と答えている。

6.       利用者の年齢は、選挙民の平均年齢とほぼ同じ。65歳以上の利用者率のほうが、24歳以下の利用者率よりも多い。利用率には男女の差はほとんどない。ただし、選挙民の平均に比べると利用者の学歴は高い。

7.       回答者の4人に1人以上が、自分の好きな政党と<ステム・ウェイザー>が出したアドバイスとが「まったく」一致している、と答え、およそ半数の回答者は、自分の好きな政党と<ステム・ウェイザー>が出したアドバイスとは「ほぼ」一致している、と答えている。

 

大衆政治防止策?

 

 日本に限らず、市民の政治的な関心や投票行動は、時として、低下し、政治離れが進むことがある。毎回の第二院選挙があるごとに、およそ80%前後の投票率があるオランダでは、日本に比べるとまだまだ市民の政治意識は高いといえるだろう。それでも、2002年の選挙での、ピム・フォルテウンという政治家の登場と、彼のカリスマ的な人気には、政治議論よりも、リーダーの見かけに振り回される「大衆政治」のにおいが付きまとっていた。また、その後不安定な状態が続いた政権は、確かに若干「大衆政治」化したオランダの政治状況をある意味では証明していたように思う。)この間の事情については、「オランダ通信」の記事を参照)

 また、2005年に行われたヨーロッパ憲法の施行をめぐる「国民投票(レファレンダム)」の結果も、いろいろな議論を呼び起こした。ヨーロッパ共同体の発足当時から、自国よりもヨーロッパの利害を優先することを辞さないのが、オランダの国民性といわれてきた。オランダ人の親ヨーロッパの伝統は定着していた、と周辺諸国からも思われていた。ところが、実際、「ヨーロッパ憲法」に関しても、当時の政権の与党だけではなく、野党の政治家ですら「賛成」していたのに、国民は、「ノー」と答えたのだ。あの当時、政治家たちは、自分たちの政治議論が、一般市民の感情から乖離しているのではないか、と反省したものだ。

 民主社会というのは、常に市民が政治議論に「参加」していて始めて、健全が保たれる。市民が、政治に無関心となり、政治議論を「政治家」という専門のエリートたちに預けてしまったのでは、「民主」政治はありえない。また、市民の政治参加とは、単に、政治家のイメージに振り回されて投票することではなく、そのときの政治課題にどんな立場でかかわるかを自覚することが前提だ。

 IPPが開発した、<ステム・ウェイザー>は、その意味で、自由奔放な発想の豊かなオランダ人が、まるで、コロンブスの卵のように、ごく簡単なわかりやすい思いつきで作った非常に効果のあるプログラムであると思う。

 日本でも、ぜひ、どこかの団体が取り入れてくれればよい、と思う。

 今日の社会の政治議論は、それほど単純ではない。あるイデオロギーを信じているからといって、一つ一つの具体的な施策についての立場が本当にそのイデオロギーから簡単に導かれるか、というと、それほど話は簡単に進まない。

 私も実際に体験したが、上のアンケート調査からもわかるように、なんと6人に一人が、自分の予想していたのとは違う政党との一致が高かったと答えているのだ。好きな政党とアドバイスの結果とがまったく一致していたのは、4人に一人だ。

 投票率が低く、単純なスローガンやリーダーの見かけの人気に振り回されがちな日本の政治を改善するひとつの方策として、オランダ人が開発した<ステム・ウェイザー>に少し学んで見るのも悪くないと思う。

 

 

参考サイト 

過去の<ステム・ウェイザー>のアーカイブhttp://www.stemwijzer.nl/archief_stemwijzers

 

2006年11月22日の第二院選挙で使われた<ステム・ウェイザー>http://www.stemwijzer.nl/2k2006/index.html

 

IPPのサイトhttp://www.publiek-politiek.nl/

<ステム・ウェイザー>を開発したIPPがフランスからの依頼を受けて作ったフランス版(2007年4月22日の大統領選挙で使用)http://www.sitoyen.fr/mon-vote-a-moi/mon-vote-a-moi.php

 

新聞社トラウとアムステルダム自由大学が開発した代替版(2006年11月22日の選挙から登場)

http://www5.kieskompas.nl/

 

 オランダの政治の風向きが少し変わってきている。

 2002年以来3期にわたったバルケンエンデ首相は、経済不況やイラク問題など世界的な不穏状況を、自党『キリスト教民主連盟』(CDA)のキリスト教保守主義と、連合パートナー『自由民主党』(VVD)の自由主義を軸に、規制緩和と財政緊縮で乗り越えてきた。3期とも、連合政権内の小パートナーとの摩擦で満期とならず、中途で挫折しながらであったとはいうものの、停滞していた雇用状況も経済成長率もとにかく4年ほどで回復・成長基調に転換した。

 しかし、経済が回復すれば、その余裕の中から力を得てくるのは、社会的な低下層の生活安定を求める動きだ。CDAとVVDの経済回復策が、自由市場の競争原理によって社会保障を縮小し、穏健とはいえ移民に対するあまり友好的ではない態度に基づいていたのであれば尚のこと、経済回復後の富の分配を社会的下層住民のために、という声が出るのは当然だ。

他方、9.11事件以来各地で散発するテロのおかげで、ずっとオランダ住民の間に尾を引いている、イスラム住民に対する懐疑的な感情は、国家主義的、移民排斥的な立場を支持する声になってきている。

 不穏な世界情勢によって多くの政治難民を抱えるヨーロッパだが、オランダでも、難民政策を巡って、政治議論は、難民への福祉を求める社会主義者と、外国人に対して排斥的な極右勢力とに分極化する傾向がみられる。

 オランダでは11月22日に第二院(衆議院に相当)選挙が実施された。ここでも重要な議論の焦点は難民問題で、そのため、選挙後まもなく、新議員で発足した第二院でも、早速この議題が激しく論じられた。

 そして、それがきっかけで、12月13日、オランダでも過去に例がないといわれる奇妙かつ深刻な「非常事態」を導くことになった。一連の事態の経過と背景について報告する。

 

11月22日の選挙結果:社会党の躍進と極右の伸び=分極化

 11月22日水曜日に行なわれた第二院選挙の結果、いくつかの目立った政治情勢の変化が明らかとなった。(具体的な議席数等については、豆知識を参考にして欲しい。)

 まず第一に、『自由民主党』(VVD)が極端に後退したことだ。前回選挙比6議席減の22議席で、これまで、『キリスト教民主連盟』(CDA)、『労働党』(PvdA)に次いで第三位にあったVVDの地位は、『社会党』(SP)の躍進によって、第4位に転落した。12年間与党にあったVVDにしてみれば、劇的な敗退だった。

 敗退要因の大きなものとして、ここしばらく続いていた党内のリーダーシップを巡る派閥対立があげられる。対移民政策で、情状酌量の余地を与えず「規則は規則」と「鉄の女」のニックネームで鳴らした急進的なリタ・フェルドンク移民・国民統合相は、その明快な政策で一部の国民の間にかなりの支持を広めていた。しかし、VVD党内部では、こうしたフェルドンクのような硬質の動きを好まない向きが多く、今年の初夏に選ばれた新党首は、VVD内でもいくらか中道寄りの穏健派、若く新進のルッテ氏だった。党首としての経験が浅いルッテは、党への票を集めるだけの力がなかったと考えられる。

実際、選挙後の発表で、VVDについては、党首の得票よりも、被選挙人名簿の第2位にあったフェルドンクが指名投票で得た投票数の方が多かったという。選挙人は、普通はわざわざ特定の被選挙人を指名せず、政党への投票は党首の票として数えられるから、この事態は、実に稀な出来事で、オランダ史上初めて、党首以外の被選挙人が党首の得票を上回るという事態が明らかになって注目を惹いた。この結果は、当然、フェルドンクを喜ばせ、党内の結束を一時揺るがす事態が起こるかにも見えた。

 また、もう一つの要因として、かつて、トルコのEU参加に関して、賛成するVVDと袂を分かち、反対して新党を結成した極右派のウィルダー氏がいたことだ。彼は、バルケンエンデ政権では、1議席政党だったが、今回の選挙では、大衆の支持を得、なんと一気に9議席を獲得した。

 旧来の伝統的な大政党の政治家たちは、ウィルダー氏が率いる『自由党』(PVV)を、外国人政策・移民政策だけにこだわる極右的な「ワン・イッシュー政党」と呼び、連合パートナーの相手にする気はない。だが、その政党が、初めての選挙で9議席を獲得したことについては驚きの色が隠せなかった。かつてピム・フォルテウン(2002年に暗殺される)という政治家が登場して、大衆の票をさらっていった時のことを思い出す。

 

 他方、野党、左翼政党側でも、新しい動きが目立った。

 これまで長く、『労働党』(PvdA)の支持の背後にあって小政党の立場を余儀なくされてきた『社会党』(SP)が躍進した。党首のヤン・マレイニセン氏は、ベテランの政治家で、バルケンエンデ政権期に低落したオランダの社会保障の回復や移民保護をテーマに社会的中下層を狙った効果的なキャンペーンを展開し、これまでの9議席からなんと17議席増、26議席で、堂々第3位に躍り出ることになった。

これは、ある意味では、バルケンエンデ政権期に、『キリスト教民主連盟』(CDA)のキリスト教保守主義が、伝統的に内包していたキリスト教倫理に基づく社会主義的な性格を逸脱して、『自由民主党』(VVD)と共にかなり右寄りの立場をとったこと、そのために、『労働党』(PvdA)が、その間隙を埋めるかのように、これまでよりもさらに中央よりの立場を示し、イデオロギー的な明確さが失われ、社会主義支持者の票が労働党から社会党に移動したためである、とも見られる。実際、労働党は、今回の選挙ではVVDと並ぶ敗者で、前回比10議席減の32議席という敗退振りだった。

 他方、キリスト教民主連盟(CDA)のほかに、少数派のキリスト教政党2党(CUとSGP)のうち、『キリスト教連合』(CU)が3議席増で6議席獲得という目立った躍進をした。これも、上に述べたCDAの最近の保守基調の政策のために、キリスト教的社会主義の性格が薄れ、その間隙を埋めたCUの戦略が功を奏したものと思われる。

 

 いずれにしても、11月22日の選挙結果は、総体として、左派勢力が伸長したと共に、移民問題で「排斥的」な傾向を明示する極右政党やVVDの急進派にも票が集まったことが特徴であった。一言で言えば、分極化、と評される。投票民は、「明確な」政治を求めている、といわれるのも、こうした事態を反映している。

 

 選挙後待ち受けているのは、連合交渉だ。主要政党ですら、マジョリティを採ることのないオランダでは、慣れ親しまれたプロセスだ。しかし、上のような、社会主義と極右勢力とへの分極化の事態に対して、評論家やジャーナリストたちは、こぞって、連合政権の成立は「困難を極めるだろう」と予想している。

第1位のCDAと第2位のPvdAは、すでに、2003年の選挙後、長い連合交渉の挙句、もの別れになった経験を持っている。

左派躍進とはいうものの、『労働党』(PvdA)と『社会党』(SP)と『緑の左派党』(GL)が揃っても、76議席という議会過半数を占めることは不可能だ。かといって、現在のCDA−VVD連合は、もともと少数派政権だったが、今回の選挙でのVVDの敗退によって、もっと縮小してしまっており、この連合の組み合わせには、もはや、あまりメリットがない。

 

 いずれにせよ、長期にわたる連合交渉が予想される中、新議員による新しい「第二院」が発足した。選挙結果に基づく新連合政権が樹立されるまでは、これまでのCDAとVVDによる〈総辞職済み暫定内閣〉が政権を維持する。法律によると、当然、この〈総辞職済み内閣〉は、すでに議会で審理され通過した政策を継続して施行するが、政策改変や新政策を実施することは出来ない。オランダ人は、このことを新政権発足まで「店番をするだけ」という言い方をする。

 

一般赦免を求める野党の動議(総辞職した内閣へ)

 ところで、今回の選挙では、すでに、キャンペーンの時から、「一般赦免(generaal pardon)」の問題が、各政党の重要な争点になっていた。

 ここで言われる「一般赦免」とは、2001年に新しい「外国人法」が施行される以前の、古い「外国人法」時代に、滞在ビザを求めていた手続き未完了の難民たちに対して、法の適用を赦免して、滞在ビザを発行する、というものだ。

 これは、具体的には、2003年の時点でのフェルドンク移民・国民統合相による情報で、26,000人いるといわれた、手続き未完了難民を対象にしたものだ。この難民たちは、「移住・国籍取得局(IND)」の書類審査等によって滞在ビザの発行についての決定が下されるが、実際には、手続きに時間がかかり、最終決定が下されないままオランダ国内の難民収容所などでの生活を余儀なくされていた。

 2003年時点での26,000人は、現在までに、出身国からの家族呼び寄せや新生児誕生などで、さらに約5,600人が増え、現在では31,600人にまで膨らんでいるといわれる。

 フェルドンク移民・国民統合相が行なってきた主な施策は、この待機中の難民の手続きを積極的に進め、その結果、法規によって滞在ビザが認められないものに対しては、即、国外追放策を実施する、というものだった。イスラム急進派住民のテロの危険が叫ばれる中、彼女の断固とした国外追放を喜ぶ大衆は多かった。

 31,600人のうち、これまですでに44%は、審査の結果、滞在ビザを取得し、オランダ滞在を正式に認められている。これは、当初予想されていたよりも多い数であるといわれる。残りのうち22%は、すでに国外追放を受けたか、自分の意思で出身国に帰還しており、34%が今のところ行く先未定の状況にある。

 

 この事態について、選挙に先立ち、各政党は、「一般赦免」すなわち、手続き未完了者に対する滞在許可授与を求める政党と、それに反対する政党とに分かれた。

 「一般赦免」支持の先頭に立っていたのが、『労働党』で、選挙の1週間前の11月16日、党首ワウター・ボス氏は、「一般赦免問題」は、労働党にとって重要政策課題のひとつである、とした。そのほか、『社会党(SP)』、『緑の左派党(GL)』、『民主66党(D66)』『キリスト教連合(CU)』『動物保護党(PvD)』が「一般赦免」を支持した。明らかに反対していたのは、『自由民主党(VVD)』とウィルダー氏の『自由党』だった。

 興味深いのは、保守第一党の『キリスト教民主連盟(CDA)』の立場だ。これまで、VVDと共に、保守政治を展開してきたCDAとしては、既存政権の立場に基づき、VVDと同じく、「一般赦免」反対の立場を採るはずだが、選挙の前夜行われた党首討論会では、VVDのルッテ党首が、明らかな立場を要求した際に、言葉を濁して切り抜けた。消極的反対、とでもすべき立場というと適切か、と思う。

 

 「一般赦免」支持者の論議は次のようなものだ。

 <難民は、すでに数年間に渡りオランダに居住している。その間すでにオランダで友人関係を築き、しばしばオランダ社会への統合もうまくいっている。このように、新しい移入民に対しても見本となるような行動をしている人たちを、国外追放すべきではない。ましてや、彼らが滞在ビザを取得していないのは、審査手続きを怠り長期にわたって待たせている政府の怠慢に責任がある。政府の怠慢によって不安定で不確実な生活を強いられた人々に対して、オランダは生活の安定を与える責任がある。特に、子どものある難民に対しては赦免すべきだ。なぜなら、この子どもたちの多くはオランダで生まれオランダで成長しており、いきなり国外追放され、見知らぬ国に追いやられる理由はない。>

 

 他方、これに反対する内閣は、次のような理由を挙げた。

 <これまでに審査の結果滞在ビザが与えられなかった人たちは、従順にオランダの法律に従いオランダを去っている。いまさら他の人に赦免を与えたのでは、すでに従順に法に従った人たちに対して公平ではない。多くの場合非常に長期にわたって待たされた難民たちは滞在ビザが与えられている。法を変えて今になって「一般赦免」を実施すれば、オランダに希望を求めて今後再び帰ってくる難民が増え、これまでのせっかくの努力は台無しになる。>

 確かに、ヨーロッパ連合によって、国境検査がなくなっている現在、ある国が、ひとつ移民受け入れ緩和策を出せば、周辺諸国、特に、対難民策が厳しい国からオランダにさらに難民が流入してくる可能性は高い。高度福祉社会が座礁になり挙げている今、これ以上移民が増えるのは、経済的に負担が大きすぎる。

 

 いずれにしても、選挙の蓋を開けてみたら、こと「一般赦免」問題に関する限り、賛成派の議席が、ぎりぎり76議席で、多数派となることが明らかになった。

 

労働党首ワウター・ボス氏の、国外追放一時停止を求める動議

 新しい議員による第二院が発足したあと、「一般赦免」多数支持の公算のあった労働党首ワウター・ボスは、さっそく、11月30日、将来成立の見込みがある「一般赦免」を理由に、フェルドンク移民・国民統合相が実施中の、難民手続き修了者(滞在ビザ非取得者)の国外追放の一時停止を求める動議を出した。動議は、賛成75対反対74という最小僅差で第二院を通過した。

 しかしながら、この動議による決定をフェルドンク女史は、「総辞職済みの暫定」政権の名において拒否した。理由は、「総辞職済みの暫定」政権には、既定の政策を変更する権限がないから、というものだった。しかし、妥協策として、彼女は、この件についての次の審議が行われるまで、国外追放は行なわない、とした。

 

フェルドンク移民対策大臣への政策不信任動議

 だが、その、次の審議が行なわれた12月12日、審議の開始とともに、政策遂行の再開(国外追放が実施される可能性がある)の立場を明らかにするフェルドンク女史に対し、労働党から再度の動議が出される。それは、再度、国外追放を一時停止することを求めたものだった。第二院の「一般赦免」賛成派の議員らは、フェルドンク女史の立場を斟酌して、一時停止を1日だけ延ばすように要求した。そして、この動議もぎりぎりで過半数の支持を得た。

 しかし「鉄の女」フェルドンクは、バルケンエンデ首相と話し合いの結果、この動議による決定も拒否。

 動議によって国会で可決された決定を拒否することは、それ自体、閣僚の越権とみなされる。しかし、他方、この動議結果を受け入れることは、「総辞職済みの暫定」政権には認められていない政策変更の実施を受け入れることになる。「法は法、規則は規則」で鳴らしたフェルドンク女史でなくても、まさに、どの動きも採ることのできない八方塞となった。

 しかし、国会の動議決定を受け入れないフェルドンク女史に対し、野党から再び「不信任動議」が出された。そして不信任動議もまた、僅差で可決された。どうやら、フェルドンクの『鉄の女』ぶり、彼女の急進的で断固とした対移民政策を嫌う議員が相当にいたようだ。

 ただし、この不信任は、役職者の「人物」そのものに対しての不信任(wantrouw)ではなく、役職者の決定・行為についての不信任(afkeuring)だったことが、この際、重要な論点となった。人物への不信任であれば、即辞職要求の意味を持つが、役職者が特定の事項について下した判断に対する不信任であれば、辞職を免れる可能性があったからだ。

 バルケンエンデ首相は、この事態を受け、フェルドンク女史を支持した。

 しかも、この野党による不信任動議の可決後、フェルドンクが属する『自由民主党(VVD)』の党首ルッテ氏は、フェルドンク女史が取ってきた政策は、VVDの立場を代表するものであるとし、フェルドンク女史が辞職するならば、内閣のVVDの閣僚はすべて辞職すると宣言する。

 

 

史上初のユニークな非常事態とそれへの対処

 こうして12月12日の深夜、事実上、13日の未明、オランダは、政権存続の危機(クライシス)という非常事態を迎えることになった。

 なにしろ、フェルドンク女史が不信任のために辞職しなければならないというのならば、自分たちも一緒に、という態度のVVDだ。VVDの閣僚が今辞職してしまえば、新政権樹立までの「暫定政権」はCDAのみによって支えられねばならない。新政権樹立までの短期間に、閣僚の半数近くを入れ替えるというのは、常識では考えられない。

ましてや、アフガニスタン派兵などの国際的な重要課題を抱えている状況で、VVDの閣僚が辞職すれば、オランダの国際的な責任問題にもなるし、現実に、国の政策への責任が持てなくなる。

 翌13日、バルケンエンデ首相は、外国出張中の閣僚をオランダに呼び戻し、延々12時間にわたる協議を続けた。

 VVDの立場は、あくまでも総辞職だったという。しかし、バルケンエンデ首相は、これらのVVDの閣僚に対し「国の利益」のために責任を採るためにも、内閣にとどまることを説得した。

 その結果、13日の深夜、バルケンエンデ首相は、第二院議員に対して書面を送り、国会で、「次期政権樹立までの国外追放の停止」と「フェルドンク女史を含むVVDの閣僚の継続」「フェルドンク女史が担当していた難民問題の担当をヒルシュ・バリング法務大臣の管轄化に置くこと」を明らかにした。

 「国外追放の停止」こそは、フェルドンクと並び、政権がそれまで頑として受け入れなかったものだ。それを最大限譲歩して受け入れ、本来ならば、政策変更を実施することの出来ない「総辞職済みの暫定政権」が政策変更を余儀なくされた、という意味で、オランダ政治史上、異例のことだった。その際、「人道的な理由のあるものについて」という条件が設けられたことにより、与野党双方を説得する理由付けがなされた。

 

野党満足、VVDの孤立

 ジャーナリストや評論家たちにとっても、口をあんぐりの、史上稀に見るユニークな「非常事態」はこうして、回避された。これまで、明確な難民対策を実施したことで支持を取り付けてきたVVDにとっては、苦い敗北であり、それを、副首相ザルム氏は「ブラックデー」と表現した。大蔵相でもあった彼の、妥協を許さない財政緊縮政策が、この数年間のオランダ経済の回復に少なからぬ貢献をしていたことを考えると、この後味の悪さは想像以上であったのにちがいない。

 他方、『労働党(PvdA)』、『社会党(SP)』、『緑の左派党(GL)』、『民主66党(D66)』、『キリスト教連合(CU)』ら、「一般赦免」支持の左派勢力は、バルケンエンデ首相の解決策を、歓迎し、新政権設立後の「一般赦免」実現への道が開かれたことに大喜びした。

 

 オランダ政治の風向きが変わってきている。

 

 もともと『キリスト教民主連盟(CDA)』は、保守とも革新とも連合してきた政党だ。キリスト教保守主義は、あるときは自由主義や保守主義に傾くこともあるが、他方、キリスト教的な倫理観に基づく社会主義的傾向が、革新派との連合も可能にしてきた。

 政治の風が、革新に傾き、敗退したこれまでの連合パートナー『自由民主党』との連合が期待できない今、CDAとしては、社会主義勢力との連合の糸口を開いておくことが得策、と考えたのかもしれない。

 また、経済回復基調に戻ったオランダとしては、これからしばらく、社会的低下層の利潤回復に焦点を置く政策が求められる時代になってきている。

 今回の「第二院」と「総辞職済み暫定」政権との対立・緊張は、今後の動きに対しても様々の示唆を与えている。

 だが、移民問題は、オランダの国境を越えて深刻化している。テロリズムと治安が叫ばれる中で、最近は、ネオナチの復活など、国粋主義的なオランダ人先住民の側の極右かも問題になりつつある。

 

 

ポルダーモデルの終焉、それとも?

 

実際、この政治危機「クライシス」解決直後の世論調査によると、左派に歩み寄ってこれまでの頑とした態度を曲げたCDAも、また、政策変更が不可能であることを承知で(暫定政権)に(国外追放一時停止)の動議で迫ったPVDAも、いずれも、支持率を落としている。

投票民は、「明確な」政治を求めている、という。だが、その政治とは、一方で、妥協のない社会主義、他方では、国粋的で人種差別的な極右の態度だ。1980年代から90年代にかけて、経済不況を脱して、ヨーロッパ内でのオランダの経済的な安定を取り戻すために、保守と革新が歩み寄り、妥協を重ねて乗り切ってきた、あのポルダーモデルの時代は、すっかり終焉してしまったらしい。

 

今世紀に入ってからの経済不況には、グロバリゼーションが影を落としている。国境を超えた世界規模の投機的な動きや、自由競争の市場原理の中で、国を越えて、貧富の差が広がっている。日本に限らず、オランダでも、貧富の格差は、広がりつつあり、社会の底辺部から、テロリズムの足音が聞こえる。

他方、テロリズムの脅威によって、人々は、自分のテリトリーを守り、塀で囲い、よそ者を受け容れまい、とする態度を強めてきている。社会的悪は、自分の属する集団ではなく、外部のものが原因であるとする。

 

しかし、かつて、オランダは、何度も、同様の問題を経験してきたはずではなかったのか。そして、オランダ人の伝統は、強権を嫌い、人々の自由と平等を擁護し、異なる価値観を持つ集団の共存を「寛容」の文化として誇ってきていたはずだ。

彼らのこの伝統的価値観が、これから、どのような政治展開に繋がっていくのか、注目される。

『キリスト教民主同盟(CDA)』を第一党とし、『自由民主党(VVD)』と『民主66党 (D66) 』と連立したバルケンエンデ第二政権が、6月30日、失脚した。短命に終わったバルケンエンデ第一政権のあと、2003年5月に発足したバルケンエンデ第二政権は、経済不況からの脱却を図るため、緊縮財政と移民に対する非寛容の政策に特徴付けられた保守中道政権だった。来年5月の満期を前にそろそろ来年の総選挙に向けて与野党の選挙運動が活発になり始めた矢先の失脚だ。民主66党の連立パートナーへの不信任による政権脱退が、直接の理由だ。直接の引き金は、5月に国会議員の座を降りた、ソマリア出身の女性政治家アヤーン・ヒルシ・アリ(自由民主党)の国籍取得にまつわるスキャンダル。同政治家の国籍維持の可否を巡って、彼女と同じ自由民主党に属する移民統合大臣リタ・フェルドンクの行なった急進的な対処が、人権保護の立場からして不透明性が強く、さらに、フェルドンクの政治的野望がこれに絡んでいるふしもあった。彼女の態度を巡って野党および民主66党から不信任が表明され、あたふたと今回の意外な結末となった。

 

民主66党の脱退を受けて、バルケンエンデ総理大臣率いるキリスト教民主同盟(CDA)と残る連立パートナー自由民主党(VVD)は、少数でも政権に残る姿勢を示した。結局、国家元首である女王が、各党代表との懇談の末に出した判断の結果、来る11月22日に総選挙が行なわれることとなり、それまでの期間、現在の国会を維持したまま、CDAとVVDによる少数政権が再編されることとなった。両与党の公算では、民主66党が脱退しても、LPFなどの右翼勢力が国会決議で支持するもの、との期待がある。

国会は夏休みに入ったばかりで、通常ならばゆっくり休み気分の政治家たちも、今年は、こんな事情で、早速、選挙対策に乗り出さざるを得なくなった。

 

ところで、今回の政権失脚の引き金を引いたのは、元を辿れば、アヤーン・ヒルシ・アリ(元国会議員)の国籍取り扱い問題である。世界的に知名度の高い、しかも、ソマリア出身の国会議員である、とはいえ、一個人の国籍問題が政権失脚を生んだことに対して、国民のおよそ半数は驚きの色を隠せない。

他方、今回の問題の背景には、ヒルシ・アリによる、妥協を赦さない自由主義の主張と、オランダ社会やオランダの人々の精神性の伝統である『寛容』の態度との間の微妙な摩擦、移民問題では強硬な立場を取り続けそれによって一般大衆のかなりの支持を得てきたフェルドンク移民統合相と彼女の属するVVDの内部分裂と政治的ジレンマ、2003年以来バルケンエンデ政権の連立パートナーであった民主66党の不満とジレンマ、などが、今日のオランダ社会の抱える問題と、それらに解決を求めようとする各政党の立場、それぞれの中で、複雑に絡んだ事情がある。

 

まずは、ことの発端であるヒルシ・アリの国籍問題から振り返ってみることにする。

 

アヤーン・ヒルシ・アリの国籍取得問題

 5月11日にテレビ番組製作局ゼンブラは、『矛盾の多い政治家』というセンセーショナルな言葉を用いて、今やアメリカのタイム誌に、世界でもっとも影響力の多い人物の一人、として取り上げられるまでになったアヤーン・ヒルシ・アリの過去を辿るノンフィクション番組を放映した。番組では、アヤーン・ヒルシ・アリが10歳から22歳までを過ごしたケニアを訪れ、彼女が、そこで、アヤーン・ヒルシ・マガンの名で地元でも有数のエリート校に通っていたこと、ソマリアでの内戦は自身では体験していないこと、などを、実の兄のインタビューなどから明らかにした。こうした事実は、彼女がこれまで問題にしてきたソマリアや他のイスラム社会の実態と彼女の生い立ちの間に懸隔を感じさせるものだった。また、父親がアレンジした結婚を嫌って、結婚相手からの追及を逃れてオランダにきた、というアヤーンの話は、結婚は強制ではなかった、そのことでアヤーンが怖れていたという父や結婚相手からの名誉回復のための懲罰の可能性などはない、という実兄や叔母の言葉とも矛盾していた。

この番組の中で、ゼンブラは、アヤーン・ヒルシ・アリ自身を同席させ、取材してきたケニアやソマリアでのヴィデオとその中での実兄や叔母などの人々の証言を見せ、その上で彼女自身の感想と言い分もそのまま放映している。

その番組の中で、アヤーン・ヒルシ・アリは、インタビューワーに答えて、「私は、これまでも自分が国籍取得の際に偽名を使ったこと、生年月日を偽ったこと、などについては隠したことはない」といっている。実際、二〇〇二年に、彼女が自由民主党に入党して、国会議員候補となった際、同党の指導者たちが、国籍取得の際の偽名や生年月日の偽証について報告を受けていたのは事実である。また、アヤーン・ヒルシ・アリが実は、アヤーン・ヒルシ・マガンという実名を持っていたことは、これまで、種々のメディアでたびたび取り上げられていたことで、今始めて発覚したことではない。

ただ、ゼンブラの番組で問題だったのは、彼女のような外国人が、難民として保護される地位を得たり、国籍を取得する際に、オランダの法律に準じれば、偽名や生年月日の偽証などをすれば国籍取得は拒否されること、また、それを知っていながら、彼女自身が公然とテレビカメラに向けてそれを認めたことだった。

 

 5月15日、移民問題・国民統合大臣のリタ・フェルドンクは、偽名と生年月日の偽証によってオランダ国籍を得ていたアヤーン・ヒルシ・アリの国籍を無効とする発表をする。わずか2日間での決断だった。しかも、この発表は、党内指導者とも、内閣とも慎重な審議を経ずに発表された。

 仮に、フェルドンク移民・国民統合相の決断が、オランダの法律に準じたものであったとしても、この、大臣の独走的な発表は妥当であったのかどうか、国会議員の地位にあるアヤーンへの国籍無効宣言は本当に慎重な検討の末に出されたのか、が問われた。

 このとき、アヤーンは実は、アメリカへの移住を準備中だった。

対イスラムに対する強硬な批判をいとわないアヤーンは、それまでにも、イスラム・ファンダメンタリストたちからの殺害脅迫に曝されており、24時間体制の厳重な警備によって暮らしていた。イスラム社会の女性解放を目指して、イスラム教社会の非民主制を糾弾するために、後に暗殺されたファン・ゴッホと共につくった映画『サブミッション』の放映の後、潜伏のために、軍用基地などを点々とすることを余儀なくされていた。その後、アヤーン自身による要求に基づいて、彼女には、安全に安心して暮らせる場が与えられ、国の費用で警備が徹底されていた。

ところが、ゼンブラの番組放映に先立つ四月、彼女が住むアパートの近隣の住民が、脅迫を受けている政治家の傍で暮らすことの危険を理由にアヤーンの転居を求める要求を裁判所に訴え、認められてしまう、という経緯があった。生命の危険を冒して『言論の自由』を体現するアヤーンに対し、オランダ社会は必ずしも団結的な態度を取りきれなかった。

おそらく、映画監督ファン・ゴッホの暗殺以後、世界的に注目されるようになったアヤーンには、すでに、オランダを超えて、世界で、フェミニスト・対イスラム批判者として活動を続けたい、との野望があり、アメリカ合衆国での就職のチャンスを狙っていたものと思われる(党の指導者には、次期政権で国会議員に出馬するつもりのないことをすでに表明していた)。近隣住民からの締め出しは、海外での活動の意欲を一層進めたものであることは間違いない。フェルドンクが、彼女の国籍無効を発表した時、アヤーンについては、すでに、9月から、アメリカ合衆国の、ブッシュ政権に近い、保守的なシンク・タンクに就職することが内定しており、メディアでの発表が出されたばかりだった。

そこに同時に出てきたのが、ゼンブラの放映とそれを受けてのフェルドンクによる国籍無効宣言だった。結局、5月16日に、国内外からの多数のジャーナリストが詰め掛けた報道センターでの記者会見で、アヤーン・ヒルシ・アリは、アメリカへの移動ではなく、国籍無効を理由に、国会議員辞職を発表することを余儀なくされた。このときに、自由民主党内部で、これまで、アヤーン・ヒルシ・アリの入党以来面倒を見てきたザルム副相・財相が、彼女を精神的にバックアップするために、記者会見に同席していた。ザルム副相は、フェルドンクの、突然の、しかも、きわめて短期の判断に基づく『国籍無効』発表を、苦々しく批判し、「こんなに短期に結論が出るのなら、積み上げられている移民の国籍申請の調査などあっという間に出来るだろう」と皮肉ったほどだ。すでに、この時点で、自由民主党内部の矛盾や葛藤は世間の目に明らかだった。

 

フェルドンクと自民党(VVD)内部の対立・ジレンマ

 それでは、リタ・フェルドンクは、なぜ、アメリカのシンクタンクへの就職が決まったアヤーンの立場を困難にするような国籍無効の発言を、慎重に時間をかけることも無く、また、党内や閣僚の同意も得ず、急いで出したのか。もっと不思議なのは、なぜ、フェルドンクはアヤーン・ヒルシ・アリの立場をそれほど追い詰めたのか、ということだ。フェルドンクがとってきた、対移民に対するきわめて厳しい政策態度は、アヤーンをはじめとする、対イスラム批判者の、命をかけた政治的発言に支えられてきたはずだ。アヤーンは、自由民主党内でも、また、国民の間にも、『表現の自由』『言論の自由』を徹底的に追求する純粋なリベラリストたちに訴える看板的な存在だった。イスラム教出身でありながら、その非民主性を強く批判する彼女は、イスラム教徒らに対してオランダ語とオランダ市民意識への適応を強く求め、移民寛容策との妥協を許さないフェルドンクにしてみれば共に戦う同志であったはずだ。

 だが、この問いへの答えは一様ではない。

 フェルドンクは、前年のある人気投票で、国民にもっとも人気のある政治家、に選ばれていた。その理由は、『法は法、規則は規則』という原則に一貫し、困難な情動的なケースでも、法規の適合に徹して、妥協を許さなかったから、という点があげられる。曖昧な態度を取らず、スパッと法律で裁く彼女の態度は、いささか合議制の妥協に堕する傾向があったオランダ政治家の間で目立ち、政治家不信の強まっていた国民にはどちらかというと好意的に受け止められていたらしい。フェルドンクにとって、たとえアヤーンが同党内の同士であっても、彼女が取り扱っている、他の移民たちと平等に、法治主義を至上のものとして、ことを処理することによって、これまでに作り上げられてきた自身へのイメージを尚一層強調したかったのかもしれない。

 また、VVDはこのとき、次期党代表の選出を巡って、候補者のキャンペーン中だった。次期党代表候補には、文部科学省の国務次官、若手でVVD生え抜きのルッテ氏がすぐに立候補していた。どちらかというと、アヤーンやフェルドンクのような、急進的リベラリストではなく、党内でも穏健派、社会主義者との対話や共通点もある、オランダの『寛容』の伝統を継承した候補者だった。

フェルドンクは、こうした、穏健派の候補に対して、全国の、企業家を初めとする急進派リベラリストに押されて、党内の急進派に押されて立候補したばかりだった。政治家としての経歴や経験が少ないフェルドンクにしてみれば、若手で党生え抜きの論客、ルッテに対抗する、何かインパクトのある行為が必要であったのかもしれない。

 

 だが、アヤーンの国籍無効を宣言したフェルドンクは、野党ばかりでなく、自党VVD内部からも、また、政権からも批判を受けることになる。

 アヤーンの記者会見の日の夜に行なわれた国会の緊急討議は夜中過ぎまで延々と続けられ、フェルドンクは、6週間の期間に、アヤーンの国籍有効を認める正当な理由を積極的に探すこと、また、その期間中は、アヤーンの国籍は有効のまま維持されること、となった。

 

 その後の6週間、アヤーンの話題はメディアの上でもほとんど聞かれず、もっばら、VVDの次期党代表選出が注目された。結果は僅差で穏健派のルッテが勝利、フェルドンクの党代表への野望は絶たれた。しかし、VVDにとっての悩みは解決していない。元来が、オランダでは少数派のVVDだ。仮に、穏健派のルッテが勝利したとしても、フェルドンクを支持する急進的リベラリストの票を確保しておかなければ、来年に予定されている総選挙で票を伸ばす見込みは無い。党内では、あきらかに人為的な、穏健派と急進派の友好的なイメージが強調され始めた。

 

 

6月28日、アヤーン国籍問題国会緊急討論の夜

 そんな中で、フェルドンクは、アヤーンの国籍問題解決のためにどんな方法を見出したか。

 その前に、ソマリア人の正式名の表記について記す必要がある。

 ソマリアでは、いわゆる姓に当たるファミリーネームは無い。自分のファーストネームの後に父のファーストネーム、その後に祖父のファーストネームをつけるのが正式の名前だ。つまり、アヤーン・ヒルシ・アリという名は、アヤーンが自分の名、ヒルシが父の名、アリが祖父の名、ということになる。これが偽名で、アヤーン・ヒルシ・マガンが本名だ、というのは、祖父の名がマガンだった、ということだ。

 ところが、フェルドンクの調査では、マガンという名の祖父は、アヤーンなどの孫たちが生まれるはるか前、20歳まではアリという名を使用していたことが、家族の証言によって明らかになった。さらに、ソマリアの民法では、祖父の名に幼名を使ってもよい、、、つまり、アヤーン・ヒルシ・アリは偽名でもなんでもない、ソマリアの民法に照らして、十分本名として通用する、というわけだ。

 そこで、これを理由に、アヤーンの国籍有効を受け容れることを、フェルドンクは首相、副首相、外務大臣、法務大臣らとの懇談で取り決め、同時にアヤーン自身に、申し開きの文書を書きそれに署名して提出することを求めた。しかし、その申し開きの文書には、『アリという名を使ったことで、フェルドンクの立場を困難なものにした』と認める文言があった。

 国籍有効の発表があった日の晩、報道討論番組NOVAのインタビューに応え、すでにアメリカに在住しているアヤーンは、この文言はフェルドンクの側からの圧力の下で加えられ署名を余儀なくされた、と発言した。彼女にとっては、アメリカでの地位を確実なものとするためには、一日も早く正式のパスポートが必要であったし、『これにサインすればすべての問題は解決する』という圧力に対して、合理的な判断をとらざるを得なかった、というのだ。

 このことが、『緑の左派党』や労働党など、野党の強烈な批判を牽引した。『緑の左派』党の動議によって開かれたその晩の国会緊急討議は、午後8時半に開会し、翌朝の5時半まで延々と続いた。

 5月に、周知の事実だったアヤーンの偽名問題が、わずか2日ほどの時間で、国籍無効宣言を呼んだことに対し、『慎重で積極的な調査』を行なう予定だったフェルドンクの結論は、ソマリアの民法の解釈による、いささか、安易なトリックだ、との印象は否めなかった。祖父がアリという名を使っていた、ということに対するアヤーンの家族の証言は、移民の身分証明として、オランダの法律では有効ではないのでは、という議論さえあった。

 そして、何よりも問題にされたのは、フェルドンクのこれまでの行為を正当化するために、パスポート問題で、基本的な人権を剥奪される状況にあるアヤーンに、申し開きの文書作成とそれへの署名という圧力がかけられたことである。

 

 結局長い議論の末、バルケンエンデ首相は、そうした圧力があったことを認め、これをきっかけに、民主66党が、フェルドンクに対する不信任投票を行なう動議を提出した。

 だが、今回、VVD内部の穏健派はフェルドンク批判を行なわず、党として全員一致でフェルドンクへの信任を支持した。不信任投票の結果は、否決。それを受けて、民主66党は、『フェルドンクの辞職、さもなくば、民主66党の連立政権脱退』を迫った。

 

バルケンエンデ第二政権のなかで慢性化していた民主66党の不満とジレンマ

 さて、それでは、民主66党は、CDAやVVDと共に連立政権を築いていたというのに、なぜ、この時アヤーン問題(フェルドンク問題)で、連立パートナーの大臣に不信任を表明したのか。なぜ、高々一市民の国籍問題が、政権分解にまで繋がるようなことになったのか?

 それには、バルケンエンデ第二政権樹立当初からの民主66党のジレンマ、そして、連立政権内で何度にもわたって民主66党が味わってきた不満が積み重なっていた、という背景がある。

 

 そもそも、パルケンエンデ第二政権は、選挙前の公算では、CDAとVVDの二党連立の予定だった。ピム・フォルテウンの遺志を継いだ右派大衆政党LPFと連立した第一政権が短命で終わった後、CDAとVVDは、LPF分裂の余波として票が彼らの政党に流れる、と予想していた。しかし、数ヵ月後に行なわれた選挙結果は、労働党(PvdA)が目覚しく票を伸ばし、CDAとの差は僅差だった。しかもVVDの議席数は減少した。

 やむなく、第一党のCDAと第二党の労働党(PvdA)とが連立交渉を始めた。だが、経済不況化で緊縮財政をすすめようとするCDAにとっては、PvdAと連立する余地はまったく無い。PvdAとの連立交渉は難航し、けっきょく、CDAは投票が後退したVVDとパートナーを組み、さらに、過半数を取り付けるために、非常に消極的だった民主66党の連立入りを泣き落とす以外に選択肢が無かった。

 こうして、60年代という、オランダが最も社会主義的な色彩を強めた時代に、知識人やジャーナリスト、学生らの支持を受け、体制批判やタブー挑戦の態度を看板に生まれた民主66党が、なんと、保守政権の連立パートナーになる、という矛盾した事態が起きてしまった。っ民主66党は、「防衛よりも教育」「市長の選挙制実現」などの施策をCDAやVVDが受け容れることを、連立入りの条件として出していた。しかし実際には、この政権中、民主66党は、バルケンエンデ政権のCDAとVVDの保守政策の中で、たびたび苦い思いを味合わされた。

 この3年余りの間、大学の授業料はあがり学生への奨学金期限は短縮化された。市長の選挙制度実現キャンペーンに対して、連立パートナーは冷ややかな態度をとり、かつて共に紫政権を作った野党・労働党は、保守政権に入った民主66党を嘲笑するかのように、市長選挙制実現に反対の態度を表明した。同じことは、オランダの平和部隊のウルズガン(アフガニスタン南部)への派遣問題でも起こった。現地のテロリスト勢力が強化しており内戦の危険が非常に大きく、平和部隊の活動の有効性が問われる、と主張して平和部隊派遣を再検討するように問うた民主66党の主張は、与党パートナーからも野党・労働党からも支持されなかった。そして、実際、ウルズガンの状況は、その後、民主66党の予想通り、悪化の一途を辿っていることがメディアの上では明らかにされてきた。

 かつて、70年代から80年代にかけて、華やかな政治舞台へのデビューを果たした民主66党は、まるで、イソップ物語のこうもりのように、保守からも確信からも見捨てられ、国民の支持は地に落ち、党代表は再三にわたって交替し、次期総選挙でも、投票者の支持を取り付ける成果を何も生み出せない状態だった。

 

 アヤーン(フェルドンク)問題で、『フェルドンク辞職か、われわれの脱退か』と迫った民主66党の決断は、アヤーンの人権を支持することで、同党の『民主意識』を表出し、現政権の勢力を弱め、彼ら自身、CDAやVVDといった、いわゆる『保守』とは一線を画する存在であることを国民に明らかにすることが目的であった、と思う。

 

CDAとVVDの強気

 だが、CDAとVVDは、何とか、自分たちだけでも、少数政権といわれてでも、政権を維持したい、という立場をとった。なぜか。

 バルケンエンデ第二政権は、不況の只中で樹立された。樹立後の政治は、ひたすら、緊縮財政と移民排斥で、福祉は後退し、市場主義が復活し、補助金受給候補となる移民はできるだけ国外追放や受け容れ拒否によって避けられた。「状況が厳しいのは将来の経済回復のためだ。今一致団結して我慢すれば、経済回復を実現できる」と国民に呼びかけてきた政府与党は、いずれも政権成立当初から、確実に、国民の支持を喪失してきた。

だが、3年余りを経た今、昨年の好況を受け、やっと経済回復の兆しが見えてきた。政権にとって、待ちに待った、明るい予算案発表を9月に予定している。その内容はすでにほとんど完成している、といわれる。その印象次第では、落ちていた国民の支持は回復し、5月には、再び、与党入りも不可能ではない。CDAやVVDは、そう考えていたのに違いない。実際、政権樹立以来、ずっと国民の支持が1位だった労働党への支持は最近急速に後退し、数ヶ月前まで、革新政権の樹立も可能、と見られていた政治状況は、今、また、保守に有利に転換してきている。保守・革新のバランスが、どちらにも転がりそうな現状だ。

 

 CDAやVVDの保守政党にしてみれば、もう少し、総選挙までの時間を延ばしておきたい、労働党などの革新政党にしてみれば、保守への転換がおこらないうちに早く選挙に持ち込みたい、との駆け引きがある。

 

 結局、10月選挙を望む革新派と12月選挙を望む保守派との妥協点で、11月22日が次期総選挙の期日に定められた。

 

 緊縮財政と移民排斥の政権が、革新派の手に揺り戻され、機会均等や移民寛容の方向に再び是正されるのか、それとも、市場原理や新保守主義が再び勢いを得るのか、、、なんとも予想のつかない事態となってきた。

 


WRR(政府政策学術評議会)という政府のシンクタンクがある。WRR自身による紹介(オランダ語によるものと英語によるも)を要約すると、この機関の目的と特徴はほぼ次のようにまとめられる。(http://www.wrr.nl/index.jsp

WRRはオランダの知識・諮問構造の範囲内で独自の立場をとって政府に諮問する独立のシンクタンクである。その研究は、独立性、科学性、学際性、政策と共同社会に対する関与、部門横断的、将来の展望に向けた諮問を特徴とし、政府の依頼によって、または、独自のイニシアチブによって、長期的なパースペクティブで多様なテーマについての研究を行なう。政府に対するWRRの報告書は政策に供与するためのものであるが、必ずしも政府の政策方針に一致するものであるとは限らない。諮問委員会のメンバーは独自に調査研究を行い、独自に報告書を執筆する。報告書は、公開され、通常、問題の指摘と諮問を含む。」

このWRRが、去る12日、『イスラム行動主義のダイナミクス』という報告書を発表した。発表の前日、報告書の概要が明らかにされ、現保守政権の対イスラム政策を間接的に、しかし、鋭く批判したこの報告書は、各党の政治家、とりわけ、リベラル派の政治家の間に、波紋を投げかけたようにみえる。

また、この報告書のスタンスが、この数年少しその姿を隠していたかのように見える「寛容主義のオランダ」の伝統を色濃く表したものでもあることも興味深い。本来、「オランダなればこそ、こういう議論が出てきて当然だったはず」といいたくなるような、対イスラム政策についての議論と勧告を含んでいる。

まずは、報告書の内容を見てみたい。

WRR報告書『イスラム行動主義のダイナミクス』

 200ページ以上に上る、このWRRの報告書は、オランダ語の全文がウェブサイト(http://www.wrr.nl)上で公表されている。すでに英語のサマリーも公開され、今夏には、英語、フランス語、アラビア語で全文の翻訳が公表される予定だ。

http://www.wrr.nl/english/content.jsp?objectid=3517

<研究の目的と問題意識>

 WRRは、70年代以来、活発になってきたイスラム世界における様々の運動と、これに対する反応として現在西洋世界に増大してきているイスラム世界に対する不信感や脅威の感情を意識的に捉え、「イスラム行動主義それ自身の中に、民主主義と人権保護についての接点はあるのか、あるとすればそれはどういうものであるのか」また、「オランダおよびヨーロッパは、どのような政策視点を持てば、イスラム行動主義による民主化や人権保護の向上を長期的に支えることができるか」という点をこの研究の問題意識としている。また、政権の政策作成のためのシンクタンクとして、さらに一歩踏み込み、研究結果を元に、オランダやヨーロッパ諸国が取るべき政策姿勢を明らかにすることをも目的とした。

 このWWRの問題意識・姿勢の中に、すでに、イスラム教社会との対話、西洋世界を超えて人間社会の絶対的な原理としての民主主義と人権保護の原理の保持・発展に対する強い意思が、明確に現れている。

<分析方法>

 WRRの報告書では、「イスラム行動主義」と民主主義および人権との関係は、(1)イスラム政治思想と(2)イスラム政治運動、また、(3)シャリアといわれるイスラム法の解釈、という三つの側面において分析されている。

<結論:「イスラムと民主主義・人権の間には接点がある」>

 報告書は、イスラム行動主義というものが、地域的な背景によって、非常に大きな多様性とダイナミクスを持つものであり、そのため、たしかに、非常に多くの不確定性を伴うものではあるが、中には「イスラム行動主義が民主化や人権のために何らかの接点を持つもの」があるとし、「イスラム教が一般に民主主義と人権の容認に適合しない(対立的なもの)、と考えるのは不当である」といっている。

 この立場は、自由のためには、あらゆる宗教的要素を排除して、政教分離にすべきだ、という自由主義思想の、対イスラム対立指向、と明らかに一線を画す。

 WRRは、まず、(1)イスラム政治思想に関しては、実際に、民主主義・法治国家・人権といった国家制度における重要な原理を、イスラムの基本原理や、イスラム法の優位性と対立するものであるとして、実際に拒否する思想家が多く存在する一方で、原理主義的・ドグマ的なアプローチからは一線を画そうとするイスラム思想家らが存在することを示している。そういう、進歩的な思想家たちは、インドネシア、マレーシア、エジプトなどのイスラム諸国において見出すことが出来るし、イランのように、きわめて原理主義の強い伝統を持つ国においてさえ見られる、という。

 また、(2)イスラム政治運動の観点からも、多様性やダイナミクスがある、という。世界的に脅威を与えている、ジハード活動を容認する、国境を越えたテロリズムが広がっている一方、そのような急進的な姿勢を改め、よりプラグマティックな政治姿勢から、現存するイスラムの政治体制の中に改革を求めるグループもいるという。そして、そうした運動は、民主主義的な原理や規範の受容に接近してきている、という。

 さらに、イスラム原理主義者たちが、しばしば、ジハード正当化の根拠として引き合いに出す(3)シャリア(イスラム法)についても、同じイスラム諸国の間で、解釈や実践上の適用において、相互に大きな相違が存在する、という。イランやパキスタン、スーダンなどの原理主義的な法制度に向かった例外を除き、最近15年の動きには、シャリア法の解釈を巡り、「イスラムなりの」人権についての考え方を発展させよう、との傾向がある、という。それは、原理的に、西洋流の民主主義や人権意識とは流れを異にするものであるが、「漸進的な歩み寄りの傾向は見逃せない」という見解を、WRRは示している。

<政策へのパースペクティブ>

 報告書は、現在の(オランダを含む)ヨーロッパ連合の、対イスラムのスタンスは、「不干渉」に特徴付けられるとし、この不干渉によってヨーロッパ諸国は、「ムスリム世界でおこっている多くの将来性のある動向を支えるチャンスを逸している」という。そして、ヨーロッパ連合諸国は、以下に示したような政策方針を採ることによって、イスラム世界における、民主主義と人権保護の発達のために、より積極的で建設的な姿勢を持つべきである、と諮問している。(カッコ内は、報告書を通じてリヒテルズが独自に解釈した読み方)

         イスラム行動主義の多様性を考慮すること(イスラム教世界を一義的に捉えないこと)

     イスラム行動主義をムスリム諸国の発展のための潜在的に建設的な政治および法的要因として受け容れること(イスラム教というムスリム社会の価値規範から内的に生まれる民主化・人権保護を認めること)

     民主主義と人権の向上のための内発的な発展プロセスや方法に接近すること(西洋型の民主主義を形態として押し付けるのではなく、イスラム教社会の中に接点を見出して伝統的価値観との整合性の力を利用すること)

     イスラム行動主義についてのよく情報を集めた上でのパブリック・オピニオンを形成し、それに基づいて、政策の大綱を作るように投資していくこと(イスラム教を批判する側のドグマ化を避け、事実に基づいた議論を行なうように政府が積極的に取り組みそれに投資すべきであること)

<ヨーロッパの対イスラム政策の現状への批判>

 WRRは、これまでヨーロッパ連合が、ムスリム諸国の民主化と人権保護のためにとってきた態度が、非宗教的(世俗的)な運動と政党への支援に限られていたこと、を批判する。

イスラム社会における、非宗教的立場に限定した協力や支持は、解決を生まないばかりか、逆効果さえ生む結果になっているという。

 WRRは、西洋世界のように、政教分離が確立していないイスラム世界においては、世俗主義や(西洋の)民主主義は、ムスリム世界に住む一般市民の間に、その定義からして、「反」宗教的な利害に供するものである、という見解を広めることに役立っている、という。そのために、世俗主義の西洋の関与は、それだけで、民衆のイスラム化を煽り、人々が急進主義者をより支持する傾向に繋がり、それは、同時に、政治的権力者が、保守的な、自己の立場を擁護する目的で「イスラム化」を企てることを、政治的正当性の範囲内で許容する結果になっている、という。

 そこで、WRRは、ヨーロッパ連合やオランダは、イスラム政治運動を、潜在的な対話のパートナーの候補から初めから排除するのではなく、民主主義や人権を容認するグループを積極的に支持し、それを除去しようとするグループに対しては、無認可の態度を明確に示し、深刻な人権侵害に対して明らかな制裁を与えるべきである、という。

<民主主義の内発的発展の支持> 対イスラム政策に関し、「制裁」(アングロサクソン型 ?:リヒテルズ註)でも「不干渉」(ヨーロッパ連合型 ?:リヒテルズ註)でもなく、いわば第三の道を提議しようとしているWRRは、「民主主義や人権は外的な力をもってしては持続可能性を持ち得ない」と明言する。モロッコにおける新しい家族法に見られるように、イスラム世界にも、シャリア法の旗印の下で、女性の権利保護を推進する注目に値する改善が行なわれている、といい、「多くのムスリム諸国において、それが独自の伝統と文化に適合されることができれば、人権の進歩的な改善は、現在、容易に容認され得る」といっている。

<結論>

そして、最後に「対決を求め、ステレオタイプ志向を優先させる世の中の雰囲気は、治安、民主化、人権改善の態度に対して、普遍に安定した環境条件を与えるものではない。唯一のオールタナティブとして期待されるのは、イスラム行動主義それ自身の中に、民主主義と人権についての接点を求めていくことである」と結論している。

報告書に対する政治家らの反応:イスラムとの対決か和解か
(4月12日付NRC紙およびフォルクスクラント紙を元に)

 さて、この報告書の概要が明らかにされた公式発表の日、NRC紙やフォルクスクラント紙の夕刊は、いずれも、この報告についてかなりの量を割いて触れ、報告書が主張する「イスラム教社会内部における民主化の潜在性」に関して、オランダの政治家らの間で意見が非常に分かれている、と報道した。

 イスラムとの「対決」か「和解」か、という点について、保守・革新で分立しているのではなく、保守・革新のそれぞれの政党の内部で、意見が分かれている様子が興味深い。

まず、政権第一党であるキリスト教保守主義のCDA(キリスト教民主連盟)。フェルハーヘン党首は、西側の規範と価値にあわせようとしないイスラム教徒に対して批判的な立場で、WRRの諮問に対しても、すぐに否定的なコメントを残した。これに対し、文部大臣のファン・デル・フーヴェン女史や、CDA内では古参で影響力もあるドナー法相、また、開発途上国援助大臣の、ファン・アルデネ女史などは、一般論として、(イスラム教をも含む)『宗教の自由』を縮小させるような発言には賛成ではない。 

政権第二党のリベラリストたち、VVD(自由民主党)内も、実は、リベラリストの特徴とされる政教分離主義によって、WRRのような宗教的寛容を基盤とした議論に対して、反対するものがほとんどか、というとそうではないらしいのが面白い。

フォルクスクラント紙をはじめ、多くのメデイアは、WRRの「相互理解」「和解」型の対イスラム政策に対する最大の論敵は、ヒルシ・アリ議員である、とする。女性の権利が認められず、様々の人権侵害の横行がまかり通っているらしいイスラム社会、ソマリアの出身のヒルシ・アリ議員は、彼女のみずからの体験と、命を賭しての「自由」のための戦いの姿勢でもって、イスラム教社会の女性解放や言論・思想の自由が守られる社会を求めた発言を続けており、それは身をもった体験に基づいたものであるだけに、オランダ国内でも支持者は非常に多い。拡大していくラジカルなイスラムの全体主義イデオロギーには一歩も譲るべきではない、とし、オランダにいる「和解」主義者たちは、「自由」が自明のものと思っているが、そうした西洋の寛容主義者には、この自由が確立されていないイスラム社会の内部の、全体主義の犠牲者の痛みがわからない、と彼女は言う。特に、デンマーク風刺画事件以後、イスラム教世界で、民衆が暴動を起こしデンマークの国旗を踏みにじる光景がテレビで繰り返し放映される中、ドイツの有名週刊誌シュピーゲル誌のインタビューに答えて、イスラム社会の全体主義を断固として糾弾していた彼女の姿は、自由主義者でなくとも多くの人々に感動を与えるものであったに違いない)。

彼女は、W(wetenschappelijke学術的)Rraad 評議会)RRegeringsbeleid政府政策)を、「世界に類稀なるWereldvreemde不思議なRare協議会Raad」とののしり、以前、トルコのヨーロッパ連合参加に反対してVVDを脱退したウィルダー議員とともに、「国会は緊急討論をして、内閣が、この報告書の立場から距離を置くよう」にすべきだ、とコメントした。ヒルシ・アリ議員も、ウィルダー議員も、2004年11月に、映画監督ファン・ゴッホ氏がイスラム・ファンダメンタリストに暗殺されて以来、ファンダメンタリストたちの標的にあげられて、24時間ボディガードの監視の元で暮らしている。それだけに、命を賭してのこうした彼らの発言には重いものがある。

その反面、このオランダ通信でも以前取り上げたように、VVDには、ウィーヘル元議員を始め、上のような、純粋な政教分離主義には賛成しきれない政治家も多い。それは、オランダという国が、元来、政教分離を撤回して、多様な、いずれもマイノリティの宗派(非宗派)集団の共存を民主社会の基盤としてきたことと無関係ではない。自由主義者もまた、この国の民主体制の中では、キリスト教保守主義者や労働者(社会主義者)と並ぶ、ひとつのマイノリティ集団でしかなかった。VVDの元党首デイクスタル氏や、最近党首を辞めたファン・アルツェン議員らも、どちらかというと、この穏健自由主義者のグループに入れられるようだ。

VVD内部の対立は、今、ファン・アルツェンの後任党首選抜を巡る党内の党首選にも現れている。合法ではあるといえ、移民・難民の締め出し策を行い、国民にも人気を得ているフェルドンク移民対策相(急進派)と、先鋭な論客として知られVVDの中でもかなり社会主義に近いといわれる若手のルッテ文部省国務次官(穏健派)とが、党首の座をめぐり現在キャンペーン中だ。今のところ、党内では、フェルドンクへの支持が、また、党外一般市民の間では、ルッテへの支持が多いといわれる。興味深い。VVDの体質が、以前に比べると、かなり、急進的な方向に傾斜してきているらしい様子が伺われる。

他方、社会主義の労働党(PvdA)も、必ずしも、WRRの報告書に現れている和解指向の政治家ばかりではないようだ。「相互理解」「和解」を求める労働党政治家の代表は、アムステルダム市のコーヘン市長や市議会議員アルバヤク氏など。コーヘン氏のユダヤ教徒としての背景や、アルバヤク氏のイスラム教徒としての背景からも、それはうなずける。他方、移民問題を巡る論考や発言が多いジャーナリストのスヘッファー氏など、ヒルシ・アリの主張に理解を見せるものもいる。

イスラム世界に対する「対決」か「和解」かをめぐって、政党内部で、それぞれこれほど立場の分立が起きていること自体、現在ヨーロッパで議論されている対イスラム政策は複雑なものであることがわかる。西洋キリスト教世界とイスラム世界という宗教を巡る対立と、アメリカ合衆国を頂点とする西洋の経済的派遣と発展途上諸国における貧困、また、西洋の経済的利権によって生み出されてきた、発展途上国内部における少数権力者と大多数の貧困層の分離、また、それによる、近代化・民主化の歪み、といった問題が、非常に複雑に錯綜していて、オランダにおける、キリスト教保守主義、自由主義、社会主義という立場の違いだけからは、明確な対イスラム政策を生み出せないでいることが明らかだ。

WRRの重要性:オランダの『寛容』の伝統・科学的相対主義と共存への志向性

 そんな中で、WRRの報告発表後のボット外相の良識ある態度は目立っていた。

 「和解」を主張し、イスラム政治運動の中に、民主化の動きを見出そうとするWRRの研究者らは、やや過激にも、現在、イスラエルを認めずテロ行為を容認している、パレスチナの政治集団「ハマス」に対して、これが民主的な手続きを通じて選ばれた政党である以上ヨーロッパは対話の相手として認めるべきだ、とした。だが、このWRRの意見に対して、ボット外相は、「私はテロを容認する組織と話をするつもりはない」と断固として拒否した。

 しかし他方、ボット外相は、同時に、報告書の発表後すぐにネガテイブな反応をした、自党の党首フェルハーヘンや、ウィルダーズ、ヒルシ・アリに対しては、批判的で、「イスラム世界における積極的な動きをよく見るべきだとするWRRの結論は支持する」「討論は怒りや先入観なしで行なわれるべき」「われわれはまず報告書を読む、読みもせずに正しくないといったら私たちに対話はない」「疑いもなく多くの価値を持った報告書で、議論を刺激するものであるはず」などと発言している。

 科学者による科学的研究に対する尊重の姿勢、また、民主主義に欠かすことのできない、継続的な対話の姿勢を彼の発言が喚起していることは、注目に値すると思う。科学研究を尊重せず、感情や自己の政治的立場で罵倒すれば、いずれその社会の科学の独立性と専門性は廃れてしまう。また、立場の異なる意見を罵倒すれば、それが、いくら自由主義の立場からのものであれ、民主主義の原理に反し、自己矛盾を引き起こす。

日本人として

 この間の議論を、私は、日本人の立場から興味深く眺めていた。

 デンマーク風刺事件があったとき、私は、別の場所で、いくつかの日本人の反応に出会った。多くは、右傾化しているデンマークこそが今回の暴動のもっとも大きな原因だ、イスラム社会の民衆の怒りを刺激するな、とする、「良識ある」議論だった。

 だが、私自身は、それに、まったく賛成するわけにはいかないようなジレンマを感じていた。

デンマークにしろ、オランダにしろ、70年代以来、積極的に、国内に住む住民(国民ではなく!!!)の機会均等を実現するために福祉社会の充実のために努力してきた世界でも稀な方の国だ。そこで、現在、右傾化が起こり、移民排斥的な雰囲気が生まれていることには、それなりの理由がある。次々に流入してくる移民たちは、同化意識や社会参加意識が薄く、福祉の恩恵を受けることには懸命だが、同化して一生懸命働いて、福祉社会の中で、他の恵まれないもののために『与える』存在になろう、と努力するものは、今も少ない。高度福祉社会を実現したこれらの国では、高齢化問題だけでも財政破綻の兆しが見えているというのに、増え続ける移民は、先住の人々の家計をさらに苦しめる要因になっている。しかも、西洋の覇権が根本的な原因であるとはいえ、テロの被害は、一般市民の生活上の治安を危うくさせている。デンマークやオランダの一般民衆の間に、せめて「風刺画」でも書いて、日頃の憤懣のはけ口を求めたい、という気分が高まっていたことは否定できない。

 また、次のようなことも思った。

 デンマークの右傾化、西洋の覇権主義を自己批判する、「良識ある」日本人の西洋批判と、イスラム社会への理解『らしき』態度には、何か、アメリカに追随してきた日本人の経済覇権主義に対する、対岸の火事を見るだけで安全な場所にいる社会意識ある知識人らの「自己反省」まがいのものに過ぎないのではないか、と。

 その前に、日本人にはまだ解決しきれていないことがあるのではないか。日本は、戦後、アメリカの占領によって一気に「民主化」した(かにみえた)。そして、それから、60年以上も立った今、アメリカ人とすっかり同一化してしまった日本人は、あたかも、後進諸国の人々に「理解を示す」立場を獲得した、というのだろうか。

 けれども、日本人は本当に、内的に、「近代化」し「民主化」したのだろうか。デンマークやオランダのように、機会均等の議論で、すべての人々の人権を尊重した社会を作ってきたのだろうか。そうした、福祉社会のあり方を巡る議論を、日本人は通過してきているのだろうか。

 太平洋戦争中にアジア諸国の人々の命を奪い、アメリカ、オーストラリア、ヨーロッパの国々で、何十万という元日本軍捕虜収容所の被害者が今もトラウマに悩まされながら生きていることも知らずにいる日本人に、「イスラム教社会の人々を理解しましょう」などという綺麗ごとが、本当に実感を持って言えるのだろうか。

 風刺事件の頃に読んだ、シュピーゲル誌のインタビューでのアヤン・ヒルシ・アリの言葉は、自由のない国で生まれた彼女が、西洋の自由の重さをどれだけ知っているかを感じさせるものとして、私は、心から感動した。これほどに、自由の価値を見極め、自己のよってきた社会の後進性を厳しく自己批判している姿は、私自身をも含め、今の日本人には、ほとんど見られないものだ、と思ったからだ。翻訳文を日本の友人たちに送ったほどだ。

 それほどに、彼女の戦いの意図は、日本人の多くが考えもしていないほど『自由』の価値を問う戦いであることに異議はない。だが、にもかかわらず、オランダの民主社会や自由のあり方を見てきたものとして、『自由』社会実現のためには政教分離以外の、別のアプローチがあるのではないか、と考えるのが私自身の立場だ。わたしにとって、世界は、やはり、お互いの文化と宗教などの個別の価値観を尊重し、異なるもの同士が、同じ土俵の中で平等に共存できる場であって欲しい、と思う。宗教の持つ排他性の問題以前に、人間存在の傲慢を防止し、自己に与えられた境遇と向き合い、前向きに生きることを教えてくれるのも宗教であるはずだ。それは、宗教というものの普遍的な価値ではないか、と思う。異なる宗教・非宗教の価値観にしたがって生きるものが共存できるための世界共通の絶対的なキーワードは、民主主義と人権そのものだ。

 一面的な政教分離によって、様々の人々の価値観を排除し、中立と画一の民主主義を作っていく中で起きる問題を、私たちは、日本の戦後の発展の中にいやというほど見てきた。一見平等に見える制度や取り扱いが、弱い者・出自に恵まれない者を切り捨てていく、という現実を見てきた。

オランダの、マイノリティ集団同士の自己規制と相互理解によって生み出されてきた共存的な民主主義社会のあり方は、それに対する「オールタナティブ」を示すものであったと思う。この数年間、そうしたオランダの伝統が少し姿を隠し、オランダ社会の中でも、外国人に対する偏見や差別が増しているような雰囲気があった。WRRの報告書の理念は、このオランダの伝統を継承して、和解によって共存できる社会を持つという、希望を持たせるものでもある。

 WRRが言う、「民主主義や人権は外的な力をもってしては持続可能性を持たない」という主張、そして、民主主義は、内的発展によって生まれるものだ、という立場は、日本が、戦後とって来た民主主義が、すべて、アメリカから移入された、それがゆえに、形骸化された、民主社会とは似ても似つかない社会を生んできたことを見れば、実に説得力がある。

 自己の歴史を学ばない日本、自己の歴史から学ぼうとしない日本は、WRRが「様々のイスラム教国で生まれつつある」という民主化や人権保護の運動からも、ずっと遥かに遠いところで、世界から孤立しようとしているのではないか。




今朝(2006年2月16日)、フォルクスクラント紙の冒頭には、こんな記事(青地部分)が掲載された。


ベアトリクス女王アムネスティに宮殿でのロビイングを許す

リポーター:ヤン・フーデマン

アムステルダム発 ベアトリクス女王は二〇〇二年に行われたナイジェリアのオバサンジョ大統領との公式晩餐会の席上アミナ・ラワルの死刑に反対するアムネスティ・インターナショナルにノールドエインデ宮でロビイングをする機会を提供した。ラワルはシャリア法によると浮気が理由で石打の刑をうけることになっていた。ロビイングは成功だった。

これは、来る火曜日に公表されるエリック・ファン・ヴェネチエとヤープ・レウケナーの「大きなロビーブック」の中に記載されている。当時アムネスティ・インターナショナルのオランダ代表だったダヴィッド・フリーセンドルプは意外にもその時宮殿に招待された。アムネスティ・インターナショナルはラワルの死刑が実施されるのを阻止するために世界的なキャンペーンを行なっていた。

公式晩餐会に人権組織が同席したのはオランダの歴史でも初めてのことだった。アムネスティの職員たちはフリーセンドルプが出席することでナイジェリアの大統領に承認を与えることになるのではないか、と怖れた。しかし、フリーセンドルプはラワルのために戦うどんなチャンスも逃すまいと招待に応じた。

宮殿では宮廷の女官が120人の招待客の中からフリーセンドルプを呼び出し大統領が彼に話をしたい、といっている、と告げた。「女王陛下が私を大統領に紹介した」とフリーセンドルプはこの本の中に書いている。

企業のトップと国の政治家たちがこの様子を驚いて見守る中、女王はフリーセンドルプ夫人と歓談していた。


アムネスティ代表(フリーセンドルプ)はオバサンジョにその日ラワル問題について国会討論がどのように行なわれたかを告げた。そして最後に彼はナイジェリアの 大統領に世界人権宣言に彼の署名をするようにいった。


「そうしたら女王はウィンクをしてくれた」とフリーセンドルプはいっている。テーブルスピーチではベアトリクス女王はこの敏感な問題には触れなかった。「別れの挨拶をするときに女王は私にこういった『私は私にもアムネスティのために何かできたら、と思っています』」ラワルへの判決はそれからしばらくして2003年に撤回された。

ファン・ヴェネティエとレウケナーはベアトリクス女王をもっとも過小評価されたロビイストだという。「彼女はこの国の中でもっとも経験に富んだしかも幅広い見解を持ったロビイストだ」とベーレンスホット・コミュニケーションのアドバイザーをしているファン・ヴェネティエは言う。「彼女は非常に戦略的な方法で人と人とを繋ぎ、そうでなければ絶対に出会うことができないような人同士にロビイングのチャンスを与えている。それは非常に繊細なロビイングの巧みさだ。」

本書の著者たち(ファン・ヴェネティエとレウケナー)はベアトリクス女王が彼女の影響を働かせたもうひとつの例を挙げている。ベアトリクス女王は2004年に経済相ブリンクホルストと公職訪問を行なった。その時のテーマは職業訓練教育を出た学生たちを労働市場にどう接合させるか、というものだった。企業の代表者たちは、職業訓練と企業との接続をよりよくするためには教育機関の経営代表者らが積極的に参加することを主張した。これに対し、女王は「そのことは私もこの25年間ずっと聞いています」と述べ、ベアトリクス女王は、このテーマに重きを置き、関係者がこの件で進展を見るようにその後も注意を払っていた、と著者らはいう。

確かに、オランダでも日本の天皇と同じように、政治的な発言権が制約されている女王に果たしてこのような(政治的な)影響力を行使する権利がるのか、という議論が起こらないとは限らない。
しかし、上記のアムネスティ問題に関しては、死刑を廃止しているオランダの立場を表明するものとして、また、世界人権宣言を守ろう、との意思において、決して意味のない行為ではなかったといえる。
オランダに長く住んでいるものの感覚としては、多分、こうした女王の態度や、王室メンバーの一般的な態度に対して、オランダ人は「見て見ぬふり」をするのではないか、と思う。
結局、女王といえども人間だ。女王といえども人間としての基本的人権は持っている。行動や言論や思想の自由は女王にもある。個人の行動や言論である以上、政治性を皆無にすることはありえない。結局のところ、女王の発言や行動に「待った」がかけられるのは、オランダの法治国家としての原則に反する行為が行なわれる場合だけではないか、と思う。


 12月17日、土曜日、ユトレヒトでは、在位25周年を祝うベアトリクス女王とウィレム・アレキサンダー皇太子・マキシマ皇太子妃を招いて、ドム教会で、『自由のために、宗教と世界観の様々な関係性との出会い』というテーマで会合が開かれた。オランダの異文化社会とそこでの宗教(信念)の役割を強調する国家委員会のイニシアチブによるもので、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教、ヒンズー教、その他、様々のヒューマニズムの信念を持つもの700名が参会し、それぞれの伝統が言葉や音楽で表現された。

 今日イスラム教徒の暴動・テロへの恐れが高まるヨーロッパでは、イスラム教(徒)への対応の仕方にも様々な方法がある。たとえば、昨年は、フランスでは、公立学校で宗教シンボルとなるものを身につけたり教室に置いたりすることが禁止されるようになった。
 モロッコ人やトルコ人などイスラム教徒の住民が多いオランダでも、イスラム教への不信感は高まり、それへの対応が盛んに議論されている。オランダでも、フランスのやり方を採るべきではないか、との意見もある。アヤン・ヒルシ・アリを初めとする自由主義者には、そうした考え方がかなり強い。

 他方で、オランダの「寛容」「多様性の受容」の伝統を作り上げてきたのは、キリスト教徒たちだ。はじめは、カトリックに対するプロテスタントの存在権を求めて、それから後には、世俗化する啓蒙主義・中立主義の近代において、キリスト教倫理を次世代に伝える倫理とする権利を求めて、このオランダの伝統は作られてきた。このほど、12月17日の土曜日、こうした、キリスト教徒の側からの、現今のイスラム教問題への、思い切った発言があった。
 それは、ユトレヒトのドム教会で上の行事が行なわれたのと同じ日、アムステルダムのCDA支部の会合の席上でのことで、「宗教は、共同社会における結合の力か、それとも内紛の種か」というテーマで行なわれた話し合いの中でだった。この会合で、CDAの重要なリーダーシップを担うドナー法務大臣は、次のように発言している。

宗教教育は国民統合を推進するためにすべての学校で行なわれるべきだ。この教育を通じて子どもたちは宗教の多様性とどう対応するかを学ぶことができる。
ドナー法務相(CDA)は、先週土曜日に行われたアムステルダムでの党会合の席上このように述べた。多くのオランダ人はイスラム教の台頭に恐れを感じている、と大臣は言う。だから社会における宗教の役割という問いに対して、新しい答えを見つけなければならないのだ、と。ドナー氏は、宗教は私的行為だ、としたがる「近代思想」に感心しない。彼は、宗教の公的役割を否定することは、事なかれ主義である、という。ドナー氏は、むしろ社会における信仰(信念)や宗教の重要な役割を強調している。かれはまた、社会統合のもうひとつの条件は、イスラム教がここに留まり、また、イスラム教は大きな宗教のひとつであるということを受け容れることにある、という
」(NRC 12月19日 1面より)

ここに下線を引いた部分にこそ、90年の歳月をかけてキリスト教主義の政治家たちが、革命派の共和主義者・自由主義者に対抗して、私立学校に対する公的補助金獲得を求めて戦った『教育の自由』の論理が凝縮されている。また、この記事には、オランダが、過去50-60年の歳月を経て、今や、マイノリティと無視することの出来ないイスラム教徒らを内包した異文化混合社会に育っていることについての肯定の態度が見受けられる。この新しい社会構成に対して、オランダの伝統的な社会観は、どうこれに対応すべきか、というドナー氏自身のオランダ人に対する問題の発議が見られる。

また、同紙同日の解説記事(3面)には、さらに詳しく、次のように記載されている。

ドナー氏がまず、宗教や信仰(信念・Belief)の役割について話をした。宗教と信仰とはまったく別のものだ、ということを強調した。なぜなら、信仰(信念)は、誰もがすることだから、とドナーは言う。『世俗化はだから信仰(信念)の喪失ではなく、信仰(信念)の変更だ」人は自分の信仰(信念)によって、また、自分の人生観・世界観から物事を処理する。』
オランダにおける様々の信仰(信念)すべての間には、共同に生きていくことのできる共有点がある程度ある、と大臣は言う。宗教と信念とは、だから、公的生活から排除されるものではない、と。『政府もまた信仰(信念)や宗教が公的事項に互いに関与することについて関心がある。それは、共同社会の中でおこる新しい問題に対して果たす規範や価値について、それが弛むことなく発展していくことを保障するものである。』
さらに、ドナーは言う、オランダ(の人々)は、イスラム教が宗教であり、ここに留まることを意識しなければならない。多様性を受け容れるすべての観点からして、すべての学校で宗教教育をすることは悪い考えではないだろう。『私たちはもう一度信仰(信念)の多様性とどう関わっていくべきかを学ぶべきだ』


今回のドナー法相の発言は、現在のヨーロッパでいろいろと論議されている対イスラム問題と異文化混合社会のあり方に関する、核心に触れる問題である。これを教育の場面においてどのように処理していくかについては、今後、ヒルシ・アリの立場などに照らして、必ずや盛んに論議されることになると思う。ただ、オランダ社会を10年見てきたものとしては、オランダ人の社会観からして、おそらく、ドナー流の考えのほうが支持されていくのではないか、という気がしてならない。それは、自由民主党の中においてさえ、ヒルシ・アリに対立するハンス・ウィーヘルのような存在が重んじられていること、また、冒頭に述べた、ベアトリクス女王を取り巻いて世界の大宗教を集めた会合が開かれたことからも読み取れる。そして、このオランダ流の行き方は、これから、国境の意味がますます失われ、様々の文化的・宗教的背景を持つ人々が、実際に、また、ヴァーチャルに交流していく世界に対して、ひとつのモデルを提示する、きわめて先鋭かつ先進的な考え方である、と私は思う。

アムステルダムのCDAの集まりには、オランダにあるトルコ系モスクの統括団体の代表者ハチ・カラカエル氏も招かれていた。

それからカラカエル氏は、イスラム教についてさらに語った。彼は、イスラム教がモスリムら自身によって新しく作り変えられねばならないことを確信しているという。『われわれはこの国に適合するイスラムに向かわなくてはならない』『オランダのイスラム教になっていくというプロセスはまだ端緒についたばかりだ』と彼は言う。『私たちに、余裕をください、それから、忍耐強く待ってください』と。』(NRC同日紙3面)



アムステルダムの路上で、映画監督テオ・ファン・ゴッホが、オランダで育ったイスラム教徒のテロリズムの手によって惨殺されてから1年余り、オランダは、必死に、イスラム教と共に生きる方途を模索している。様々の人間観・世界観・宗教的信条を排除することは易しい。しかし、排除した後の一見『中立』に見える空間を支配するのは誰か。経済や産業のグローバリズムの 進行によって世界的な影響力を持つ強権が世界の隅々の人々の生活に影響を及ぼしている今日、情報のグローバリズムが対抗するには、自らの立場や信念に基づいて、接点を求めて互いに話し合い、互いに共存できる道を探し続けることしかないではないのか、、、。宗教心が浅い、と自他共に認める日本人だが、ドナー氏に言わせると、生きるにあたって、信念がない、ということはありえない、というのだ。確かに、宗教を信じずとも、科学・テクノロジー信仰やヒューマニズムはひとつの信念である。そういう意味では、日本人には関係ない、とはいえない話だ。しかも、文化と宗教的背景の違うものが出会うとき、その違いは、耐え難いほどに受容の難しい場合が多い。キリスト教徒としては、稀に見るほどの相対主義に相対主義を重ねて、受容と共存というあり方に行き着いたオランダ人たちの発言に、少し耳を澄ましてみてはどうだろう。

移民問題についての過去の記事へのリンク

「風が吹けば桶屋が儲かる」式に言えば、「イスラム急進派のテロの恐怖が煽られればオランダ人のアイデンティティが揺らぐ」といったところか、、、

 

先週、ソマリア出身で自由民主党(VVD)の若い女性政治家アヤーン・ヒルシ・アリが、同党の名誉党員、かつてVVDのプリンス的存在だったハンス・ウィーヘルを真っ向から批判した問題発言は、リベラリズムの立場を巡って党内に波紋を呼んだ。しかし、この波紋は、単に、党内だけの議論ではなく、これまでオランダで伝統とされてきた「寛容」や「合議制」に基く民主主義のあり方そのもの、つまりは、オランダ人のアイデンティティとも言える社会的合意の組み立て方に挑みかける議論でもある。

 

ふたりの喧嘩には党代表の仲介が入ったものの、議論そのものは、今だに決着がついていない。

 

ヒルシ・アリの問題発言とウィーヘルの反論

 

 VVDの内輪もめの直接の引き金は、ヒルシ・アリが、「議会史年刊2005」のインタビューで、VVD政治家(現在は名誉党員)ハンス・ウィ-ヘルを「反動的保守主義者」と批判したことだった。

 

アヤーン・ヒルシ・アリ(1969年生まれ)は、この「オランダ通信」でも過去にたびたび登場した。ソマリア出身ではあるが反イスラムで急進的な自由主義者だ。特に、公然たるモハメッド批判をも辞さず、イスラム教社会における女性差別に対して厳しい糾弾をし、イスラム教徒らから絶えず脅迫に曝されている。映画監督テオ・ファン・ゴッホは、去年の11月、彼女の企画で作られたイスラム批判の短編映画「サブミッション(服従)」が基で、路上で惨殺された。(関連記事
 もともと、1992年に23歳でオランダに入国し、清掃婦や郵便分配などの仕事から身を立て、やがてライデン大学で政治学を学び、2003年以来、VVDを代表して国会議員の立場にある。ファン・ゴッホ監督の暗殺事件後、ますますイスラム急進派たちから暗殺脅迫の標的にされてきているが、妥協のない徹底したイスラム批判を続け、今年の4月には、アメリカのタイム誌で「世界で最も影響力の大きな人物100人」に選ばれるなど、彼女を称える人々はオランダの外にも多い。

 

 方や、彼女が批判したハンス・ウィーヘル(1941生まれ)は、オランダが他の西ヨーロッパ諸国の例に漏れず、体制批判の学生・市民運動で吹き荒れた60年代の後半、30才前後の若さで、リベラリストVVDの若手新進旗手として一躍政治スターの座に躍り出た人物だ。政治議論に卓越し、社会主義者に対する機転の利いた反論でカリスマ的存在となり、30代にして内務大臣を務めた。若い年令で数々の政治的地位や県知事などを勤めたウィーヘルは、現在、まだ64歳という若さだが、VVDの名誉党員という立場で、政治実践からは身を引いている、しかし党内の現役政治家の間に彼の息のかかったものは多い、といわれる。

 現在は、オランダでも比較的人口密度が低い東北のドレンテ地方の村で静かに暮らすウィーヘルだが、2007年の総選挙では、再び党代表として出馬するのではないか、とか、現在の党代表ファン・アルツェンが、次期選挙の結果次第では、ウィーヘルを「総理大臣」に推するつもりだ、などの噂が紛々としている。

 

 こともあろうに、これほど党員から「イコン」視されているウィーヘルを相手取って、ヒルシ・アリは「私はこう思います。ディーレンかディーバーだか知らないけれど、そんな理想的な、お伽のような国に住んでいるこの人。完全に‘不思議の国’に住んでいるのでしょ。彼は、グロバリゼーションにも、移民にも、新しい現実にも触れることがないわけだから。彼のことを私は反動的保守主義者だと見ますね。ウィーヘルなんていう人は、近代化に抵抗することができなくて自分の近隣に引きこもり安全で気持ちのよいところにいくトルコ人やモロッコ人の父親と同じじゃあないですか。」

 

 この発言に、当然ウィーヘルは黙ってはいなかった。このニュースが流れた日の翌日(11月23日)の朝、ハンス・ウィーヘルは書状を持って、ヒルシ・アリが彼女の立場を見直すことを求めた。ここでは、アヤーン・ヒルシ・アリが以前から主張している憲法第23条の削除問題に触れている。憲法二十三条は「教育の自由」すなわち、私立学校の公立学校との平等を認めたものだ。こんな法律で、イスラム学校を保護し、ブラックスクールの出現を容認するから移民の分離が起こりテロリズムが起こる、というヒルシ・アリの言論にウィーヘルは同意しない。。

 ウィーヘル曰く「教育の自由、(移民の)統合、われわれの移民出身の国民との関係」に関し、彼女の立場(すなわち宗教性を排し中立の公立校のみにせよとの立場)は「橋を架けようとするものでなくむしろ楔を打ち込み隔たりを広くするものである」。「私はあなたが、リベラル派の伝統に最善を尽くしてしたがって、寛容な態度をとり、他の考えを持つものに対して尊重の態度をとることを希望します。さもなければ、私たちの国民の間の対立を一層際立ったものにするでしょう。もしそうされるのであれば、私は喜んで話し合いに応じます」

 

 ヒルシ・アリは、このウィーヘルの書状に対して、「反動的としたことについては、行き過ぎであった」と認めたものの、インタビューの内容を変更するつもりはない、と強い態度で切り返した。

 

 困ったのは、議員党代表のファン・アルツェン。純粋なリベラリストの論理で女性差別やイスラム社会の非民主制を糾弾するヒルシ・アリは、国内外にも支持が多く、党にとっても重要な存在だ。しかし、彼自身、これまで先輩として多くを学んできたハンス・ウィーヘルの名誉を傷付けるわけにはいかない。その週の土曜日(26日)当事者の二人を招いて、党存続のために自粛を求めることになった。とはいっても、実際には、古老のウィーヘルよりも、ヒルシ・アリに対する自粛要請であったといわれる。

 

 それでことが片付いてしまえば問題はなかったのだが、VVDのもうひとりの古老フリッツ・ボルケステインが、テレビのインタビューで、ヒルシ・アリの「憲法二十三条」削除を支持してしまったのだ。すなわち、ボルケステインもまた、宗教教育を行う私立校に対して、国が公立校と同じ補助金を出すことに反対したわけである。

 

「教育の自由」とリベラリズム

 

二人のリベラリストの立場の違いは、憲法二十三条の趣旨と、この条項が設けられた1917年からおよそ90年を経た現在のオランダ社会が抱えている移民問題について理解しなければ、問題の焦点は明らかにならないだろう。

 

憲法二十三条は、1917年に、90年にわたる「学校闘争」という政治論争を経て改正されたものである。「学校闘争」とは言うものの、私立校、特に、宗派立の私立学校への、国庫補助金の公立校との平等を求めたこの闘争は、単に、教育の分野に留まるものではなく、この国の民主主義のあり方を決定付ける重要な意味を持つ論争であった。

もともと、19世紀のはじめに作られた教育法の体制下においては、フランス革命とナポレオン統治時代を経て「政教分離」の近代主義に基いて、公教育はいかなる宗教の影響も受けず、「中立的な」いずれの信条にも共通な価値観にたって行なわれるべきもの、との考えが底流にあった。

「学校闘争」はこれに対して、当時、教会に付属して教育活動を行なっていたキリスト教徒たちの側からおこった。キリスト教者が、自分たちの信条に基づいて、独自の倫理観で子供たちの教育を行なうのは、国民として当然認められるべきではないか、という立場である。この議論は、特に、オランダにおいて多数を占めており、かつ、オランダの建国史において重要な役割を担ったプロテスタントの政治家らによって主張・展開された。これは、やがてカトリック教徒らの支持をも取り付け、学校教育は、いかなる信念に基くものであれ、市民団体によって設立することが可能であり、また、そこで行われる教育は、教育者らの自由裁量を認めたものでなければならない、ということが決められる。しかも、そのような、教会立あるいは、法人・教会などの市民団体によって設立された学校であっても、国からの補助金は、公立校の子供とまったく同じ額が支給される、というものだ。

 

実は、この憲法二十三条の改正が議論された90年の間に、一貫して自由主義者らはこの改正に反対であった。自由主義者らは、元来、その政治的論理からして、自由競争を求める立場であり、そのために、画一性や中立性を強く求めるからである。結局、長い議論の結果、二十三条改正が議会を通過した背景には、自由主義者が求めていた普通選挙法の是認が交換条件になった、といわれている。すなわち、キリスト教保守主義者の要求する「教育の自由」(私立学校の公立学校との平等)が、自由主義者らの「普選法」と交換され、両者が実現されることになった、ということだ。

 

しかし、このような政治的な取引があった末のこととはいえ、憲法二十三条は、その後のオランダの教育をヨーロッパの中でも際立って目立ったものとする結果となった。

 

まず、私立校が公立校と平等の補助金を獲得することができるようになったおかげで、親の学費負担は公立・私立の間で大差がなくなった。つまり、親には、多数の選択肢の中から子供の学校を選ぶ自由が与えられたのだ。無論、戦前のオランダ社会では、各家庭の宗派が固定しており、「選ぶ」というよりも、家庭の宗派によって自動的に学校が決まるケースがほとんどであった、と思われる。

「選ぶ自由」が本当に革新的に意味を持つようになるのは、60年代後半以降のことである。

宗教信仰や宗教的倫理に規定される様々の倫理観は、戦後の復興を終え、経済成長の真っ只中にあった60年代後半のオランダにおいて急速に薄れていった。それに代わって生まれてきたのは、既成の倫理やタブーに挑みかける若者の新しい人間観だった。大勢順応型の人間ではなく、変革を求める人間への関心と行動が著しく目立ってきたのがこの時代だった。

そんな時代、教育界では、オールタナティブ教育への関心が急速に高まった。かつて、ヨーロッパ各国での「国家」の役割として「国民教育」を為政者たちが強く求めていたときに、マイノリティとして生まれてきたいろいろな新教育・オールタナティブ教育は、70年ごろになって、オランダで一気に開花し発展することになった。元来、オールタナティブ教育は、子供を「国民」として育てることではなく、子供を「子供」自身として、その適性と発達のテンポを尊重して育てることを目的とするものであったからだ。

おそらく、60年代後半以降の、欧米先進諸国で、多くの人々が「人間らしく」子供を育てることを求めた時代、オランダの教育制度は、公私立の補助金平等のおかげで、とりわけ、そうした新しい教育を実践する環境に恵まれていた、といえる。実際に、市民の力や教会立の学校のイニシアチブによってオールタナティブ教育が広く普及した。そして、親にとって学校の選択肢は、方法の様々に異なる学校から自分の子供にあった学校を選ぶべく、大変大きく拡がった。

 

移民統合政策と「教育の自由」

 

 だがその一方で、「教育の自由」の否定的側面も現れてくるようになった。それは、これも高度成長期の産物である60年代以降の移民出稼ぎ労働者の増加を背景にしている。

 

 様々の宗教宗派の団体が学校を設立する自由によって、オランダでは現在「イスラム学校」が他の学校と同じように国の補助金を受けて学校教育を行っている。もちろん、教授用語はオランダ語でなければならないし、教員資格も国が認めたものでなければならない。教科数や教授時間数にも規則があり、各教科ごとに達成目標が明らかにされている。しかし、その一方で、全教授時間数の3割程度の時間を使って、母国語教育をしたり、宗教教育をするなどの自由が、それぞれの学校(理事会)に認められている。

 このような「イスラム学校」が、イスラム教の価値観で子供を教育するために、それが、オランダ社会で自明のこととされてきた価値観や社会意識と相容れない場合がある、ということへの問題意識が生まれてきている。

 

 もうひとつの問題は、学校選択の自由によって、先住のオランダ人と移民たちとの間に学校選択による分離が起きている、ということだ。出稼ぎ移民としてオランダにやってきた人たちは、一般に、収入レベルが低く、どうしても都市部の住宅事情の悪い地域に集中して住む傾向が強い。そのため、その地域の学校には、移民の子弟が集中することになる。また、同じ地域に住んでいる先住オランダ人たちは、オランダ語ができずオランダ文化に適応していない移民の子供たちと共に教育を受けることを嫌い、そこの地域から離れた地域の学校に自分の子供を送り出す傾向が高まる。こうして、都市部の移民居住区では、学校選択のドーナツ現象が生じ、移民ばかりの学校(ブラックスクール)とその周りにオランダ人ばかりの学校(ホワイトスクール)ができることになる。

 実際、都市部では、何十年も前から存在してきた私立のキリスト教系の学校ですら、8-9割が移民の子供たち、という現実が起きている。

 こうした分離は、たとえ、移民を受け容れている学校がイスラム教の理念ではなくキリスト教理念によるものであったとしても、移民の子供たちをオランダ人の子供たちと混じり合わせ統合を進めることに寄与していない、という議論がある。

 

 アヤーン・ヒルシ・アリが憲法第二十三条の削除を求める理由は、こんなところにある。彼女としては、かつて19世紀のはじめに、ヨーロッパの国々が国家の役割として国民教育を普及し始めた時に「政教分離」を原則として「中立」の公教育を普及したのと同じように、国の補助金を得る学校教育はすべて宗教色を配した「中立」のものであるべきだ、とするのである。

 しかし、1917年に成立した憲法第二十三条体制(「教育の自由」)は、上にも述べたように、オランダ人にとって、オランダ社会のアイデンティティとも言えるほど重要なものである。実際、学校闘争の議論の最中には反対していたリベラリストですら、その後現在に至るまで、この法律の削除を要求したことはない。現在のVVDの党のマニフェストにおいても、憲法二十三条の存続は「認める」という立場だ。

 

 だから、ハンス・ウィーヘルはヒルシ・アリを批判する。ヒルシ・アリは、ウィーヘルに比べるとはるかに徹底した自由主義者であるが、それだけに、オランダという文脈の中では、あまりにも急進的なのだ。

 

ポルダーモデルは多民族世界の新しい民主主義モデル

 

 ハンス・ウィーヘルの前述の言葉が、オランダの伝統的な民主主義の形を象徴している。

「私はあなたが、リベラル派の伝統に最善を尽くしてしたがって、寛容な態度をとり、他の考えを持つものに対して尊重の態度をとることを希望します。さもなければ、私たちの国民の間の対立を一層際立ったものにするでしょう。もしそうされるのであれば、私は喜んで話し合いに応じます」

 果たして、他者への寛容と尊重が本当にリベラル派の伝統であるのかはともかくとしても、オランダでは、「リベラル派」ですら、「寛容」や「他者への尊重の態度」は、代えがたい重要な価値なのだ。

 

 オランダの「寛容」は、スペインのカトリック勢力からの独立を目指して宗教戦争を起こした16世紀にさかのぼる。オランダ人は、カトリックを否定するのではなく、プロテスタントとして自分らの存在が市民として認められることを求めて独立戦争を起こした。オランダの人々は、その間、ヨーロッパ各地で排斥されていたプロテスタントの教徒らに居住の場を与えた。スピノザはユダヤ人だった。また、プロテスタントの家庭に生まれ、後にカトリックに改宗し、さらに再びプロテスタントに改宗したフランス人神学者ピエール・ベイルは、ロッテルダムの大学で教鞭をとり、宗教的寛容について説いた。ここで言われた「寛容」とは、なんでもあり、の各人が気ままに好き勝手に信じることを放任しあう、というようなものではない。そうではなくて、自分の信条に照らせば、到底受け入れがたいものを、敢えて認めるという、相容れ難い異なる信念のものがそれでも共存していくための、越えがたいものを越えての、血の滲む思いを越えた人々の叡智であった、と私は思う。信仰告白を求める唯一神信仰では、それは非常に難しいものであるはずだ。

 

 つい20年前、80年代にオランダが不況のどん底にあったとき、企業者側(一般には自由主義者)と労働者(一般には社会主義者)とが、オランダ国家経済の存続のために合議し歩み寄って労使協定を成り立たせた。(ワッセナー協約)この時にあったのも、元はといえば、このような、歩みがたきもの同士の相互受け入れの態度だった。それは、「ポルダーモデル」といわれ、ヨーロッパの他の国々から「経済回復モデル」として賞賛された。

 この「ポルダー・モデル」の背後には、オランダ人の「寛容」が明らかに存在している。

 

 オランダ人たちは、自己主張をして相手の存在を否定することを嫌う。何か、すべての人に共通の規則や規範を作って一刀両断に行動や言動を裁断することを嫌う。彼らが法治国家というとき、それは、基本的人権として普遍的に認められた条項があるのであって、それ以上に、文化や宗教によって規定される特定の価値を特別に重視することはない。それだけに、人々の「自己規制」が強く求められる。こうした前提があるから、市場原理が良く機能する。強者と弱者の存在を放置した自由主義の市場原理よりももっと洗練されている。

 

 が、イスラム急進派のテロリズムが現れるようになって世界は変わった。

 

 アヤーン・ヒルシ・アリは、オランダのイスラム学校や、ブラックスクールを放っておいたら、テロリストらの巣窟になる、という。そうでなくても、同性愛者・女性など弱者の人権を認める、近代的なオランダの自由社会の価値観を、こうした学校で移民たちは学ぶことがない、という。

 しかし、こうして、イスラム社会の自発的内発的な近代化を頭から否定するアヤーン・ヒルシ・アリの態度や言動そのものが、多くのオランダ人には受容し難い。

 オランダ人は、これまで、カトリック、プロテスタント、自由主義者、社会主義者がそれぞれ、自らの立場に従って、自己規制をしながら、社会に協力的に参加するという民主主義の様式を作り上げてきたからだ。こうしたオランダ人たちは、イスラム教徒の社会も、そうでない周辺の人々が、この集団の存在を認めることで、むしろ、自発的にオランダ社会への参加の力と知恵を生み出してくるはずだ、と期待する。実際、このオランダ社会に適応し、ここで教育を受け、エリートとして学問を収め、様々の分野で活躍している移民は少なくない。

 

 しかし、そうしたオランダ人の期待を裏切るかのように、移民による暗殺事件が起こり、移民による校内暴力が起こる。それは、彼らが「移民」であるためなのか、「移民であるがために押し付けられる貧困」のためであるのか、この二つは峻別されるべきである、と思う。

 

 先ごろ起こったフランス都市部のスラムでの暴動は、この問題を明らかに象徴していた、と思う。フランスの先住の人々に比べて数倍にも及ぶ失業率を持つといわれる、これら暴徒たちの社会は、一見彼らを「フランス人」として統合させておきながら、実は、彼らを受け容れない企業家たち・政治エリートたちの実相を明らかにした。これは、文化や宗教といった問題ではなく、文化や宗教を理由にこうした層の人々を排除する人々の問題である。が、しばしば、社会階層の問題は、文化や宗教や民族の違いに置き換えられてしまう。

 

 オランダの「寛容」は、この問題をすでに歴史上早く乗り越えていたはずだった。学校選択の自由は、文化・宗教・民族といった、人々の様々のアイデンティテイを互いに尊重する制度であった。互いに尊重されることによって、自己と自身が属する集団の自己規制がうまく働いた。

 

 こうしたオランダにおける、多様な価値の共存、寛容、相対主義に基く合議的な政治決定様式、一言で言えば「ポルダーモデル」は、人種の坩堝と称して自由競争をあおり達成主義を説くアメリカ的な民主主義に対抗して、多様な国の共存を目指すヨーロッパの民主主義のモデルになるはずだった。

 

それが、今はげしく揺らいでいる。

 

原因はイスラム教急進派のテロ行為の故なのか?

わたしは、原因は、テロリズムへの「恐怖」ではないのか、と思う。それは、私たちの内側に潜む心理であると同時に、他者によって煽られる恐怖でもあると思う。

 

 暗殺されたテオ・ファン・ゴッホの一周忌の追悼式で、アムステルダム市のコーヘン市長は、こう述べた。

「恐れを去ろう、希望を選択しよう。自由の中での生き方を。」「私たちは私たちが欲しいと望むものを信じる自由、私たちが思うことを言う自由、私たちが行きたいところに行く自由を持つべきだ。恐れから解放されよう」と。

 コーヘン市長が、かつてオランダでナチスに迫害されたユダヤ教徒の子孫であることと、この言葉の意味との間には深い関係がある。

 

この追悼の日には「私たちの社会にはWEとTheyがあるのではない。あるのは、WEだけだ。」との言葉もきかれた。宗教や民族の名によって人と人との間に線を引けば、WeとTheyが生まれる。私たちは、一人ひとり皆異なる存在である。だが、それを、宗教や民族や国境によって括り、集団にラベルを付けることによって、共同・尊重・相対視ではなく、対立・排斥・絶対視が生じる。

 

 ヒルシ・アリが、たとえ、どんなにイスラム教社会の差別や暴力について証拠を突きつけてきたとしても、自由主義の名の元にイスラム社会の非民主性だけを糾弾することに私自身は同意できない。非民主的な行為や現象は、イスラム社会だけでなく、あの「自由(?)」で「先進的(?)」と主張してやまないアメリカ合衆国でも日常的に起こっていることだからだ。Theyは、今世界のいたるところに増えている。

 

 が、オランダもまた、ポルダーモデルを忘れて、「自由」の名の元に、自らの社会にTHEYを作り始めている。

 

 オランダの新聞やテレビを見ていると、しばしばCPBという機関の調査結果が報道される。現政府の諸々の分野における政策が、長期的または中・短期的に、国内において、あるいはまたヨーロッパないしは世界の経済動向の中で、どのような経済効果を持つものであるか、の予測をしたり、野党各党の政策対案がどれほどの実施可能性と社会的利益への効果を持つか、などを独立の立場で研究分析している。
 CPBというのは、オランダ語でCentraal Planbureau、直訳すれば、中央計画局、となる。しかしCPB自身が明記しているように、オランダの経済は完全な市場経済原理に基づくものであるから、この機関は、(経済)計画に携わる機関ではない。CPBの主な役割は、オランダにおける政策策定のために、科学的に信頼でき、しかもアップデートで当面の政策課題に有用な「独立の」経済分析をして、資料に供することにある。そこで、対外的には、この機関は「CPBオランダ経済政策分析局 (CPB Nederlands Bureau for Economic Policy Analysis)」という名称を用いている。

  CPBは、1945年、のち1969年にノーベル賞を受賞したオランダ人経済学者ヤン・ティンベルヘンによって設立された。経済省の下部機関として、同省の資金によって運営されている。この機関の特徴は、経済省という国家機関に属してはいるものの、研究内容は、政府からも、また、いかなる機関・団体の利害からも「独立」の研究機関という立場を貫いていることにある。

 「社会的利益」という点について、CPBは公式ホームページにおいて、次のように自らの方針を明らかにしている。
「CPBの仕事は、政策策定に供するためのものであり、したがって政策に供しない純粋な科学研究は行なわない。」「経済効果の分析は、経済的利益という観点から行ないその情報を提供するためのもので、何らかの政治的立場を正当化するためのものではない。」「独立といえども、われわれは象牙の塔から研究するのではなく、科学と政策との交叉点で仕事をするために、分析を要請する側の人々、その他諸々の研究機関、独立の研究者らとの頻繁で良好なコンタクトを保っている。社会の利益を守るべく、CPBの仕事が科学的に信頼性の高い質のものであることを重視している。」
つまり、平たく言えば、CPBの仕事は、政府の御用学者として政権の立場を擁護するものではなく、かといって、独立の研究者を自称して実践とはかけ離れた机上の理論を持って分析するのでもなく、諸々の政策案が社会の経済的利益という観点からどのような効果を持つかを科学的に質の高い研究によって分析し広く国民に提示する機関である、ということである。

 こうした立場から、CPBが行なっているのは、たとえば、国会第二院(衆議院に相当)選挙前の各政党の選挙綱領に示される政策や選挙後の連立交渉の間に提示される連立合意案中の政策提案が、実現可能性のあるものか、また、どのような経済効果を予測させるものであるか、などを分析する。さらに、長期的には、高齢化社会やヨーロッパ統合などの問題について、様々の立場の政策(案)がどのような経済効果をもたらすものであるのかを、福祉国家の持続可能性という観点から分析したりする。

 研究の「独立」性についてはさらに次のように述べられる。
「歴代の経済大臣は、CPBの独立性を尊重するばかりでなく、必要に応じてその独立性を擁護する弁明を行なってきた。それは、CPBの調査結果に大臣自身が同意できない場合でもそうだった、、、、大半の政治家は、CPBの独立性を受け入れ、しかも尊重している。だから、CPBは政府とも、また、野党とも共同することができる。」「政治家は、CPBが具体的な政策提案の経済的効果を明らかにすることができてこそ初めて政策を決定することができる。」
つまり、御用学者として、政権に都合のよい分析をしたり、または、野党を支援して、イデオロギー的に偏向した研究分析をすることよりも、あくまでも、科学的に客観的な質の高い実証性に基いた分析こそが、政策決定者や作案者にとって最も有意義なデータを提供する、という立場を貫いており、それを、与野党いずれの政治家も尊重している、というのである。

 もちろん、CPBの研究の独立性、本当に彼らの研究が政治的偏向のないものであるか、についての議論は常に生じる。メディア上でも問われ議論されることがある。しかし、少なくとも、こうした「独立の立場」を明らかにすることによって、それこそがCPBの使命なのだ、という点で、社会に合意があり期待がある。

 「独立性」の保障のために、いくつかの装置が設けられている。
 まず、研究資金は納税者の税金で賄われる、というもの。経済省の予算が当てられているのはそのためである。税金を支払っている納税者、すなわち国民のために、CPBの研究成果は、「無償で」公開される。したがって、過去に発表されたすべての研究調査の報告書は、公式ホームページから無料でダウンロードできる。政党、企業などのいずれからも資金を受けないことが公正な分析を保障する、という立場だ。(ただし、例外として、ヨーロッパ連合およびOECDの委託調査、また、一時的な必要に応じた特殊問題の分析は、関係当局の予算の中から研究費が拠出される。)
 さらに、二つの委員会が、CPBの仕事を監督し毎年勧告を行なう。二つの委員会とは、企業代表者および研究者から成る「中央計画委員会」とオランダの経済発展に関連する諸官庁の代表官僚が構成する「経済問題委員会」である。
 加えて、CPBは、その独立性の維持、すなわち、社会的利益のための科学研究という立場の維持のために、自身の研究調査の質に対する意見・批判に対してオープンな態度をとる、と明記している。

 このようにして、CPBは、様々の分野における政策についての経済効果を分析する報告書を次々に提示している。
 記憶に新しいところでは、現政権が設立される前の、キリスト教民主連盟と労働党の間の連立交渉の際に、労働党の経済政策の実現可能性に注意信号を出したことがある。また、バックナンバーの記事でも取り上げた、「ヨーロッパの四つの将来」を描いた報告書(2003年)も興味深いものだった。
 最近では、つい昨日、来年2006年の国家予算案の発表日に合わせて、野党5党(キリスト教連合、緑の左派党、ピム・フォルテウン党、労働党、社会党)からの要請で行われていた各党の経済政策対案に関し、その経済効果、国家予算効果、消費力効果についての分析が提出され公表された。

 また、教育に関連したものとしては、今年の6月に二つ、興味深い報告書が出されている。
ひとつは、「国際的視点からのオランダの教育と研究」、もうひとつは、「オランダにおける自然科学・工学の学生の不足について」というものだ。
 いずれも、すでに他の研究機関がいろいろな方法を用いて様々の立場から行なった調査結果を使いながら、CPBが独自に、それぞれの問題について、そのオランダ国内における「経済効果」という立場から分析したものである。それによって、「オランダの教育は経済的効果の観点からしてどれくらい効率的に行われているのか。」「自然科学・工学の学生が不足しているというのは本当か。」といった問題を問い直し、メディアで騒がれている政治議論の方向とはちょっと違った角度から実証的なデータを使って異なる議論を展開している。
 これらの報告書については、折を見て、是非また「教育エッセイ」で報告したいと思う。いずれにしても、独立の立場からの科学的分析、というものが、政治家に対して実にプロヴォカティブ(挑発的)なものであり得るのだ、ということをCPBはしばしば体現し、目を開かされる。
 また、そうした、与野党を含む諸政党の政策や政治議論に対して、「おいおいちょっとこのデータを見てみろよ」と、彼らの目から鱗を落とすような報告書を発する、そういう研究機関を自前の資金で内蔵させているオランダの政治機構というものの懐の深さを感じる。オランダ社会の「成熟」を感じさせるのは、こういう機関の存在を知る時だ。
 
CPBのサイトはこちら(英語ページあり)


民主主義や市民意識というものは、その国の社会の個々の個人の自己肯定がなければ成り立たない、と思う。つまり、それぞれの個人が、自分の頭で考え、自分の選り好みで自分の立場を決めるということだ。

 

オランダの教育制度について、本を書き、講演会をして日本の人々に伝えてきた。そんな中で、「やっぱりヨーロッパは日本よりも何十年も進んでいるから」という溜め息を聞くことが案外多く、ふと心に苛立ちを感じてしまう。

 

「ヨーロッパは素晴らしい、日本はダメだ」と音をあげたくなる気持ちはよくわかる。確かに、教育ひとつをとっても、その議論の深さ、発達の度合いは比べ物にならないし、これを、民主的な市民意識が希薄な日本に一体どう植えつけていったらいいか、と途方に暮れる気持ちは、私の中にもある。が、私が伝えたいのは、オランダの制度そのものではなく、それを作ってきた人々の心意気だ。

 

また、「オランダの教育を是非日本に移植したい」「オランダブームがいつまで続くことだろう、しばらく続けばいいが」というコメントにも時々出会う。これにもまた、ふっと躊躇せざるを得ない気持ちが頭をもたげる。歴史や文化の異なるオランダの教育制度やその一部をそのまま日本に当てはめようとしても無理があるだろう。むしろ、オランダの教育の現状や、これまでどういう場面でどのような改革が行なわれてきたのか、そのプロセスはどういうものであったか、を仔細に見ることが、日本の教育の現状や問題点を「鏡に映し出すような」効果をもつことになるのではないか、という気がするのである。日本に比べて進んだ民主的な教育制度を持っているのは、オランダに限ったことではない、フィンランドも、デンマークも、その他多くの欧米諸国で、市民たちは知恵を絞りあい、時代の要請に応じた公教育のあり方に今日も取り組んでいる。オランダの教育制度の話を聴いて、日本との違いに気づいたら、その悔しさを梃子にして、自分たちなりの日本の教育を作っていこう、という意欲につないでいって欲しい、私がオランダの情報を伝える意図はそれに尽きる。

ヨーロッパはやはりすごい、といってしまう日本人の気持ちの中に、ひょっとすると、国民的習性となってしまった「無意識の」インフェリオア・コンプレックスが深く潜んでいるのではないか。それが市民意識の発達の妨げにならなければよいが、とも思う。

 

欧州統合が進むのを待つまでもなく、ヨーロッパの国々は、社会の様々の分野での各国の施策について互いに詳しい情報を持つようになった。さすがに「多様性」を重んじるヨーロッパだけあって、それぞれの国の人々の自国文化への誇りは高く、他国の施策がうまくいったからといって、これをすぐに模倣するようなことはしない。ヨーロッパ人の誇りが許さない。けれども、情報交換の度合いや密度が高まるにつれ、お互いの施策の成功・不成功については、やはり、実験結果を見るような思いでいるのではないか、と思う。それが、各国間の切磋琢磨となり、ヨーロッパ諸国それぞれに独自の政策につながっていくのだと思う。

 

そういう雰囲気の中に暮らしているので、日本の孤立が、というより、日本人の孤立意識が、一日でも長く続けば、また、それだけ、社会の発展のための先進諸国の政策検討や制度作りの切磋琢磨から取り残されていっているように見えてならない。日本が極東の遠い国だとか、日本型の欧米先進諸国から離れたところにいる、というのは、今や概念の中だけのことだと思う。

 

日本は、本当ならば、文化や価値観がもっと近い、アジアの周辺の国々と切磋琢磨していけば、もっと学ぶものは多いのではないか、という気もする。が、日本人の欧米に対するインフェリオア・コンプレックスは、「発展」といえば、欧米の成果を部分的に切り取って模倣することに向かわせ、他方、アジア周辺諸国に対しては、いわれなきスペリオア・コンプレックスを抱かせるもので、ほとんど関心らしい関心を寄せる人はいない。いずれのコンプレックスも、ただただ、日本を今以上に、将来に向けて長く長く孤立させ硬直化させていくものなのに、と思う。

 

オランダに住んでいると、オランダ人の想像力が貧困であるとか、集団行動がうまくないとか、単にとても不器用な人たちだ、というようなことを日常的にしばしば感じる。日本人は、それに比べると、一般に、人間関係における想像力はとても鋭く、他人の立場を斟酌する訓練がよくできているだけに、社会集団内の問題を構造的に捉えることもうまい、と思う。しかも、緻密な思考を続ける忍耐力もかなりあるのではないか。オランダ人にできることなんだから、日本人にできて当たり前ではないか、と私は一人で息巻いていることがしばしばだ。

 

だから、日本の方たちよ、誰が優れているとか、誰が優れていない、とか、お互いをランク付けしたり上下関係に収めていても始まらないから、一日も早く、自分の頭で考え、心で感じるままに、「これぞ」と思う考えをどんどん試行していって欲しい、と思う。ヨーロッパから遅れていることに気づいたら、どうか、その悔しさを梃子にして、知的な戦いと社会的貢献に挑んでいって欲しい。「市民」というのは、それくらいの誇りを持った自己肯定がなければ生まれない。

3月末から4月初めにかけてのオランダ政治は、珍しく、小政党「民主66党」(D66)に振り回されることになった。そしてその成行きは、現在のオランダ政治の傾向や行く末について様々のことを考えさせる動きでもあった。



ことの起こりは、市長直接選挙制の導入議論である。

そもそも、オランダの行政制度には、他の先進諸国や日本などに比べても、意外に「民主的」でないものが多いといわれる。市長の任命制がそのひとつ。日本の参議院にあたる「第一院」の議員が直接選挙でないこと、また、組閣における元首(王・女王)の果たす役割なども、「非民主的」であると批判されることがたまにある。



● 「民主66党」の設立の背景

反権威主義の反体制運動が盛んだった60年代に、知識人やジャーナリストらを中心にリベラル左派として生まれた「民主66党」は、こうした行政における反民主的な制度を改革することを、特に政治課題の中心に据えてきた。民主化のための行政制度改革こそは、「民主66党」の命だった。

「民主66党」は、反権威主義のムードの中で、結党の翌年いきなり7議席を獲得する。70年代には、オランダ国内では、社会主義の労働党、キリスト教民主主義、自由主義といった従来の3つの代表的な政治的立場に対して、「第四の波」と呼ばれる新しい立場と称されるまでに至った。その後は一時停滞の時期もあったが、80年代の終わりから90年代の初めにかけて再び躍進、1994年の選挙では、なんと24議席を獲得して、初めて政権入りを果たす。労働党PvdA(37議席)と自由民主党VVD(31議席)と共に、「紫政権」を樹立した。(オランダ通信バックナンバー:ピム・フォルテイン氏の暗殺からオランダ総選挙そして保守政権樹立へ―――その背景と意味(第23号時事2002.5)

しかし、その後の「民主66党」は低迷を繰り返す。第2期の紫政権(98−02)では、10議席減退して政権に留まったものの、労働党や自由民主党とのバランスは崩れた。また、紫政権の政策が行き詰まりを見せると共に、2000年代に入って、ピム・フォルテウンのカリスマ性に惹かれる大衆保守派勢力が強まる中で、さらにその影は薄くなる。(オランダ通信バックナンバー:地方議会選でロッテルダム市に大波乱(第21号時事、2002.3)――ポピュリスト・新右翼(?)のフォルテイン氏が初出馬で第一党に躍進



経済不況と移民問題(反イスラム意識の高まり)が政治の主要課題となる中、60年代に民主的行政改革を唱えて支持を得た「民主66党」は、有権者へのアピールを失っていった。



● 現政権における「民主66党」の立場の弱さ

2003年の選挙結果は、保守と革新に分極化した。第一党の「キリスト教民主連盟」CDAと第二党の「労働党」PvdAの差はわずかに2票。(オランダ豆知識)結局両者の長い連立交渉は決裂し、「キリスト教民主連盟」は、議席数では敗退したはずの「自由民主党」VVDと「民主66党」D66と共に連合政権を築くほかには、議会で過半数を保障する選択肢がなかった。

この折、「民主66党」は、保守化するオランダ政治にジレンマを感じつつも、止む無く連立政権への参加を受け入れる、という経過を辿った。90年代に8年に渡って労働党と組んでこの国の政策を決めてきた民主66党は、2003年から、あからさまな新自由主義による保守連合に参画することになった。この連立交渉の際に「民主66党」が連立パートナーに対して出した条件の一つが、2006年の地方選挙における市長直接選挙制の実施実現であった。(オランダ通信バックナンバー:オランダ国内政治

しかし連立参加後、わずか6議席を有する「民主66党」の政権内での立場は弱かった。経済立て直しのための度重なる緊縮財政政策、反テロリズムのための治安強化策などが主要課題・議題としてとり上げられる一方、「民主66党」が求める行政制度の民主化や高等教育への資金拡大などは、優先課題として取り上げられることはなかった。

この間、自由民主党のザルム副首相・大蔵大臣が、保守化の風雲に乗じて、この時とばかり財政緊縮政策に乗り出し、企業家に有利な新自由主義政策の旗手となっていたのとは対照的に、同じく副首相の立場にあったデ・フラーフ氏(民主66党)の顔には、まるでジレンマをそのまま絵に描いたような浮かない表情が続いた。「民主66党」の政権内での存在の薄さは明らかだった。

ついに今年になって、「民主66党」は、市長直接選挙制実施キャンペーンに乗り出す。デ・フラーフ氏自ら専用バスに乗り、市長の直接選挙制の実施を訴えて全国各地を巡回した。が、直接選挙制に対して、有権者の声は必ずしも積極的であるとはいえなかった。

現行制度では、市長は、通常、地方議会議員が選出した2名の候補者の中から、政府が指名する。指名は、「女王の弁務官(Commissaris van de Koningin)」と呼ばれる「州知事」が行う。市長には、政治・行政上の経験の多いものが選ばれるケースが多い。任期は6年間なので、任期4年の議会構成を必ずしも反映するわけではない。また、多くの主要都市では、市長は、警察署長を兼任することになっており、その権力はかなり大きい。

こうした制度に長年慣れ親しんでいるオランダ市民一般に、民主66党の説く「市長直接選挙制」はあまり説得力を持たなかった。反対議論の中には、市民に直接選ばせると、アメリカ合衆国のカリフォルニア州知事シュワルツェネガーのような、必ずしも市長の資質を持たない人物が選ばれる可能性もあるではないか、と愚民政治を危惧する声が上がった。それはそれで、オランダらしくて興味深い。賛成者の中にも、2006年を「時期尚早」とする声が少なからず聞こえる結果となった。



現行の市長指名制は憲法に拠っている。したがって、市長直接選挙制を導入するためには、第二院(衆議院)と第一院(参議院)の両方で、3分の2以上の議席の賛成を得、憲法における指名制の条項の削除をしなければならない。第二院では、野党労働党が賛成して、憲法の条項削除に対する決議は通過していた。



●  「第一院」の労働党の反対、「民主66党」の孤立

ところが、3月22日、第一院がこれを否決した。野党第一党、左翼の大代表である労働党が「民主66党」の提案を拒否したために、3分の2の賛成に至らなかったのである。デ・フラーフ氏は、この議決で第一院の労働党の賛成を得るために、労働党が反対理由としてあげる「時期尚早」という意見に対して、2006年の地方議会選挙では、限られた市の市長についてのみの実施とし、その他の市の市長は2010年の選挙まで延期する、という妥協案を受け入れていた。労働党の支持を得るために、譲歩した結果提出した案が、その譲歩にもかかわらず、労働党によって反対された。

労働党の、社会主義的立場からすれば、より「民主的な」直接選挙を選ぶのが論理的であると考えられる。第二院では、労働党は賛成していたにもかかわらず、第一院の労働党は、民主66党の提議に反対した。しかも、社会党(SP)グリーン左派党(GL)などの、これも社会主義的立場の野党がいずれも労働党に同調して反対票を投じた。

「紫政権」で同胞であったはずの労働党の反対に合い、デ・フラーフ氏はがっくりと肩を落とした。「紫政権」で8年間、共に政権を守った労働党からの拒否に会い、翌日、氏は、副首相の辞任を明らかにした。

労働党や社会党、グリーン左派党が足並みをそろえて反対した裏には、看過できない背景がある。

オランダでは、各種団体が、政治バロメーターと称して、政党支持のサンプル調査の結果を定期的に公表しているが、それによると、2003年の選挙以来、与党各党は支持率を継続して減少させてきている。度重なる緊縮財政で、一般市民の購買力は減退し、社会福祉資金の減少によって家計負担は増え、一般市民の政権への支持は落ちる一方だった。野党には、今政権を倒せば、社会主義連合の樹立が可能だ、との公算があった、ともいえる。前回の選挙で、わずか6議席しか取れなかった「民主66党」に対して、9議席に躍進した社会党や8議席を取っていたグリーン左派党も政権入りを狙っていたと思われる。



デ・フラーフ氏の辞任により、「民主66党」の政権からの脱退問題が一挙に浮上する。バルケンエンデ第U連立政権存続の危機が著しく高まった。同時に、労働党の内部では、市長直接選挙制に賛成した第二院議員と、反対した第一院議員の間に亀裂と緊張が生まれた。かつてロッテルダム市長や内務大臣を務めた労働党員ペーパー氏など、「時期尚早」などと説教めいたことを言う第一院の労働党員を公然と批判した。

こうした労働党の非論理性を梃子に野党を批判したのは「民主66党」のディートリッヒ第2院党代表だった。彼は、連立パートナーに対しては、この機会を捉え、つまり、現政権の解散の危機をほのめかしつつ、「民主66党」の主張する行政改革や高等教育への予算拡大などを迫った。「民主66党」ほどの小政党が、オランダ政治の行方をこれほど手中にしたのは、後にも先にもこれが初めてだっただろう、と思う。

そして、3月24日夜、三連休のイースターホリデーで国民が休暇に浸っている最中、連立政権を構成する3政党は、11時間に及ぶ交渉を続けた。その結果、@2010年の市長直接選挙制実施などを含む行政制度改革に対する幅広いアジェンダの実施、A特に知識技術教育を重視する高等教育や保育施設拡大のための7億5千万ユーロの追加予算、B公共放送への政府の影響を縮小する改革の実施などの、民主66党の要求を、保守派のキリスト教民主連合と自由民主党が譲歩して受け入れた7ページに渡る「イースター合意」が成立する。

しかし同時に、「民主66党」の党内では、保守派との連携を続けることに反対して脱党する党員が現れ始めた。現在なお党員らに非常に大きな影響力を持つといわれる、結党メンバーの一人、元外務大臣・副首相のファン・ミールロ氏が「イースター合意は無意味である。行政制度の民主化こそ民主66党の命である」と批判した。「民主66党」内部の結束もぐらついた。



● 連立政権の存続は「民主66党」の手に

「民主66党」は、「イースター合意」を受け入れて連立政権を維持するか、あるいは、拒否して政権解散をもたらすか、の意思決定を、臨時総会によって党員の1人一票に託すことにした。

イースターホリデーから1週間後の4月2日、ハーグ市の国際会議場には、2500  人余りの「民主66党」党員が集まった。開会時のムードは、「イースター合意」反対であったといわれる。もともと立場の違う保守政党との消極的な連立参加だった。政権成立後も、「民主66党」の立場は軽視され続けてきた。しかも、今回の議論では、党内で大きな影響力を持つファン・ミールロ氏が、「イースター合意」に反対の表明をしている。連立政権に留まることを主張するディートリヒ議員代表の演説に対してブーイングが起こったといわれる。

とはいえ、「民主66」党には、社会主義野党勢力と手を組む道は明らかに閉ざされていた。今回の議論の直接の原因は、第一院で、労働党を初めとする野党が、こぞって「民主66党」を見捨てたことにある。「民主66党」がいなくとも、労働党は社会党やグリーン等と組んで政権を樹立できる、との公算があったのだろう。「民主66党」が、少しでも国民の支持を得るためには、現政権に留まり、今回の「イースター合意」で勝ち取った高等教育への予算拡大などを通じて、自らの存在意義を国民に示す以外に道はない。

総会の最後に予定されている党員投票の前に、ファン・ミールロ氏が演説した。党内の指導者、党員らのすべての参加者の注目が集まる中、氏は「今また政権を解散して選挙をやり直す意味はない。行政制度改革は、党の命ではなくなった。」と述べた。また、辞任したデ・フラーフ氏もまた「イースター合意は意味のないものだ、しかし、今ここで政権解散する気はない」と述べる。また、党内の指導者の一人は、「紫政権で実施できなかった民主66党の政策のいくつかが、保守連合において実現できる可能性に期待する」と述べる。

イデオロギーよりも、政党の政治生命が先行せざるを得なかった。

かつて、19世紀のイデオロギーでは現在の社会の問題を解決できない、とした「民主66党」は、今、確かに、イデオロギーではなく、現実主義的に自らの政治生命を選択せざるを得ないところに立たされていた。結党メンバーの1人だったファン・ミールロ氏は、けれども、結党以来「民主66党」が命としてきた行政改革課題よりもより幅広い、言い換えれば、輪郭のぼけた政党として保守政権に留まるしか道がなくなった政党に、苦虫を噛み潰すような表情を隠しきれなかった。



● キリスト教民主連盟CDAと自由民主党VVDの勝利

翌日の新聞NRCは、事の成り行きをCDAとVVDの勝利、と評した。「民主66党」に譲歩をしたとは言うものの、現実には、「民主66党」と野党社会主義派との間の亀裂を利用して、国民の支持が減っていたはずの自政権の存続を確定した。現政権への支持が弱まる中、勢力を強めていたはずの労働党は、内部に立場のズレがあることを露出してしまった。社会主義野党もまた、イデオロギー的議論ではなく、政権の解散を期待するあまり、事の本質を看過してしまった、といえるのではないか。



● オランダ政治の脱イデオロギー化と保守化

今回の一連の動きを見ていて感じるのは、オランダ政治の議論が、イデオロギーをベースにしたものではなく、政党間の駆け引き、それも、有権者の投票を意識しながらのご都合主義に変わりつつある、ということだ。

ピム・フォルテウンというカリスマ性の強い政治家の登場以来、オランダは大衆政治が優勢になってしまった。「民主66党」が登場した60年代、それは、ベトナム戦争で象徴されるように、アメリカとソ連との冷戦状態の最中の時代であった。まさしく、資本主義体制と共産主義体制とのイデオロギー対立の時代だった。

「民主66党」はそんな時代に、「19世紀のイデオロギーでは近代社会の問題は解決できない、科学的でプラグマティックな対策が必要だ」として、新しい有権者の支持を取り付けて政治の舞台に踊り出てきた知識人集団だった。

そして、この時代、従来のオランダ社会に優勢だった宗派による政治的態度の決定様式は崩壊し、確定した支持政党を持たない浮動層が増えた、といわれる。

以来今日までの40年足らずの間に、オランダ社会では著しい個人化・個別化が進んだ。それは、一見して個々の個人が「自分で考え自分で立場を決める」傾向の強まりと見えたものの、実は、この間進行していたのは、いずれの宗派にも帰属意識を持たない、また、かといっていずれのイデオロギーにもアイデンティティを感じない無辜蒙昧の大衆の増大に他ならなかったのかもしれない。

オランダの「寛容」社会の基礎は、「縦割り社会」と呼ばれた、宗派やイデオロギーに強いアイデンティティを感じる異なる集団の並存状態にあった。人々が、互いの存在を認め合うという意味で、平等に並存する集団が、それぞれ政治的立場を主張し、合議によって互いの合意を目指す、それがオランダ政治の特徴であるといわれていた。しかし、今、このオランダ特有の民主主義のあり方、その基礎となる社会の構成は、現実には崩れてしまいつつあるのではないか。

今回の一連の「民主66党」の動きに対して、マスメディアは非常に政治に注目していた。にもかかわらず、有権者の政党支持にはほとんど目立った変化がなかった。(http://www.politiekebarometer.nl/)政党間の力の駆け引きだけで政治の行方が決まっていく中で、大衆化した有権者は、無関心なのか、あるいは皮相に政治を眺めているだけなのだろうか。

先月2日に起こった、テオ・ファン・ゴッホ(映画監督)の残虐な暗殺事件は、犯人がファン・ゴッホ氏の胸にナイフを突きつけて残した手紙から、この暗殺をイスラム教の聖戦と称する、急進派イスラム教徒によるテロ行為であったことが当初から明らかとなった。こともあろうに、西洋世界では「寛容」民主主義の旗手といわれてきたオランダの、それも首都アムステルダムの路上で起きた白昼のこの事件は、2001年9月11日以来、先進資本主義諸国の間に高まっているイスラム急進派のテロリズムへの恐怖を、再び現実のものとし、オランダの住民を震撼させパニックに陥れている。

 そして、同時に、この事件に対する政府の対応、国民の議論をめぐり、新たな問題も指摘されつつある。この議論は、オランダの民主主義のあり方を問い、今後の行方を左右する非常に重要な議論であるように思う。

 今回の暗殺事件は、いち早く日本の新聞でも報道されたが、背後関係など必ずしも十分に伝達されておらず、そのため若干誤解を招く恐れのある報道内容のものも見られた。事件の背後関係やその後のオランダ国内での議論を整理しておきたい。



●暗殺事件

事件は、11月2日の朝8時45分ごろ、アムステルダム市内リナエウス通りでおきた。映画監督・コラムニストのテオ・ファン・ゴッホ氏が自転車で仕事場に向かう途中のことだった。後ろから、これも自転車で追い越してきた男がいきなり発砲、ファン・ゴッホ氏は、はじめに撃たれた後、自力で道路の反対側までたどり着いたが、そこで犯人は「止めろ、止めろ」と叫ぶ氏をさらに数回銃撃。目撃者の話では、犯人は息絶えた氏の首をナイフで切ったうえ、腹と胸にナイフをつきたてた。ナイフには、二つのメッセージも添えられていた。

 犯人はその後発砲しながら近くの公園に逃走したが、警察によって取り囲まれ、足に銃撃を受けて逮捕された。

 犯人が、モロッコ人のイスラム教急進派テロリストであることは、残された手紙の内容と、逮捕後の調査ですぐに明らかになった。しかも犯人は、オランダの「一般情報警備局(AIVD)」にイスラム急進派の危険人物として以前からリストアップされていた人物であったことも明らかとなった。翌々日までに、警察は、この暗殺事件に関連して、犯人が関わっていたと見られるイスラム急進派ネットワークの関係者8人をさらに逮捕した。

 また、犯人の残したメッセージには、ファン・ゴッホ氏と共に、今年の夏「サブミッション(服従)」という短編映画を制作した自民党所属の国会議員アヤン・ヒルシ・アリ女史への脅迫状が添えられていた。また、警察の調べによって、同じような脅迫状が、最近反イスラム的発言などによって自民党を脱退したヘールト・ウィルダー氏に対しても出されていたことが明らかになった。

 

●背景:アヤン・ヒルシ・アリの映画

 犯人はファン・ゴッホ氏の胸に残したメッセージの中で、第二院(衆議院に相当)の議員(自由民主党)、アヤン・ヒルシ・アリ女史に対して暗殺脅迫をしている。実は、この暗殺事件の直接の原因は、イスラム教の女性差別を告発した映画「サブミッション」の制作と公開にある。ところが、この件について、日本の一部の報道では、やや誤解を招く表現となっていることが気になる。この点をまず明らかにしておきたい。



「殺害されたのは画家、ゴッホの遠縁とされるテオ・バン・ゴッホ監督(47)。イスラム教を国教とするソマリア出身の同国の女性議員をモデルに「イスラム教は女性への暴力を助長する」とした映画を製作。今年初めオランダ国営放送で放映され、殺害を示唆する脅迫状が舞い込んでいた。」(毎日新聞)

「挑発的作品で知られるテオ・ファン・ゴッホ監督(当時47歳)が暗殺されたのは、オランダ国営テレビで今夏放映された短編「服従」で、イスラム社会の暴力的な女性差別を厳しく告発したからだ。

直後に捕まったムハンマド・ブイエリ容疑者(26)は、次の暗殺対象として短編映画制作に協力したヒルシ・アリ下院議員らを名指ししたメモを所持していた。同下院議員は「(イスラム教の教祖)ムハンマドは邪悪な暴君」など、激しいイスラム批判で知られる。」(読売新聞)



などがその例である。これらの記事の中では、アヤン・ヒルシ・アリ議員が「モデルにされた」あるいは、ファン・ゴッホ氏に「協力した」というような表現になっているが、それは事実として正確ではない。

 もともと、この映画制作を提案したのは、ヒルシ・アリ議員自身だった。(ヒルシ・アリ議員の背景については、以前「オランダ通信」でも取り上げたことがある、ので参照して欲しい。<同化・統合政策を巡る異文化と女性差別の問題―アヤーン・ヒルシ・アリの選択(オランダ通信第30号、身辺雑感、2003.1)

 イスラム教国ソマリア出身のアヤン・ヒルシ・アリ氏は、以前、労働党(PvdA)の調査機関に勤めており、その当時すでにイスラム教の女性蔑視に関してイスラム教を真っ向から批判し、イスラム教社会内部の、特に男性教徒らから脅迫を受け、労働党の人身警備を受けたことがある。その後、ヒルシ・アリ氏自身は、労働党を「脱党」して、敢えて自由民主党を選び、党から押されて選挙に出馬、昨年の総選挙で国会議員となった。

労働党脱退の理由は、その対移民政策にあったと思われる。労働党の立場は、個々の移民の背景である彼らの社会的価値意識・文化を尊重し寛容に受け入れよう、との態度である。オランダの、伝統的な、どちらかといえば、キリスト教倫理の強い影響を受けた文化的価値観を移民に強制することに対して非常に慎重で消極的である。しかし、アヤン・ヒルシ・アリ氏は、彼女自身が育った環境としてのイスラム社会における女性蔑視を問題としていた。つまり、イスラム教出身者自身による内側からのイスラム批判だった、というのがここでの大変重要な点である。だからこそ、彼女は、移民に対して寛容な労働党を脱党して、政教分離に基づく中立性、そして、これによる自由主義を旨とする「自由民主党」に自己同一性を感じたもの、と思われる。総選挙で国会議員に選ばれた直後、彼女は、再び、マホメット批判をも憚らずにやってのけ、その後も何度も脅迫の危機に身を曝してきた。

 実際、今回の映画制作に先立って、ハーグの有名な市立博物館に対し、イスラム教社会における女性差別を弾劾するために、イスラム教徒の女性を模した実物大の人形にコーランを書き付けたものを「芸術作品」として展示したい、という案を出したが、館長から踏みとどまるように助言された、とも言われている。

 こうした経過を経て、ヒルシ・アリ氏は、これまでにも「挑発的」な作品を多く生んできたファン・ゴッホ氏に映画制作への協力を求めたのだった。ファン・ゴッホ氏もまた、最近は、急進派イスラム教徒を批判する発言があったといわれるが、従来、一定の政治傾向を取り立てて明らかにした人物ではなく、むしろ挑発的な「態度」によってよく知られた人物だった。政治問題に頭を突っ込み、明らかな立場を示したのは、今回が初めてではないか、といわれる。いずれにしても、映画制作の発案者は、ファン・ゴッホ氏だったのではなく、イスラム教社会を女性解放の立場から弾劾しようとした、内部からの批判者ヒルシ・アリ氏であった、ファン・ゴッホ氏がイスラム教の批判のために彼女の協力を頼んだのではなく、事実は反対で、アヤン・ヒルシ・アリ氏の依頼を受けて協力したのは、ファン・ゴッホ氏の方だった。

 「サブミッション」という映画は、イスラム教徒、殊に、男性イスラム教徒に対して非常に「挑発」的であったにちがいない。

この夏に国営放送局のチャンネルを使い「夏のゲスト」というインタビュー番組の中で放映されたものを見たオランダ人は少なくなかったと思う。透視性の強い黒いベールの下に全裸の女性が体中にコーランの言葉を書き付けられた状態で立っている。コーランにあるアラーの言葉に従順に従っている女性が、その従順さの中で、男たちの暴力の標的にされ傷ついていく、というメッセージだ、と解されるものだった。ベールの下の裸体を強調したのは、ファン・ゴッホ氏だった、とも言われるが、女性の体型を公衆の面前に曝すことを倫理的に恥ずべきことであるとするイスラム教徒にとって、イスラム教徒の女性が全裸で、しかもコーランの文字を体中に書き付けられ、イスラム教社会の女性差別の批判として使われる、ということ自体、大変侮蔑的なイメージであったに違いないし、センセーションを巻き起こしたに違いない。ヒルシ・アリ氏としては、イスラム教に従順であろうとするが故にどんな男性の行為も神の意思として受け入れ、それがゆえに、男たちの欲望のはけ口とされ人間性を無視されていく女性を描こうとしたのであろう、と思う。しかし、そうした彼女の意図が、これほど「挑発的」で「侮蔑的」なイスラム批判のショックの影でイスラム教徒自身にどれほど伝わったことか、、、。ましてや、現今の世界は、新保守主義の西洋自由主義世界の政治家らによる反イスラム敵視が顕著で、そんな中で彼女の声は、自由主義者の偽善を弾劾するイスラム教徒の立場からすると、かき消され非難されるものに過ぎなかったのではないか、と思う。実際、この映画の放映後、さらにテレビ番組でイスラム教徒の女性たちと対談するヒルシ・アリ氏は、この映画に対する強い嫌悪を抱くこの女性たちから、非難されこそ同調はまったく得られなかった。

 実際、以後、アヤン・ヒルシ・アリ氏に対する脅迫は激しさを増し、ファン・ゴッホ氏にも脅迫が相次いでいた、といわれる。

ただ、ファン・ゴッホ氏自身は、以前から「挑発的」な行為や作品のために脅迫された経験が皆無ではなく、政府の人身警備の申し出をわざわざ断り、「私は警備の間で暮らすのはゴメンだ、、、、脅迫や警備について話せば話すほど気の狂った奴が攻撃する可能性は大きくなる」と拒否していた、といわれる。

 しかし、そういう「この国は言論の自由が許される民主社会だ」との信頼が裏目に出た。ひょっとすると、氏自身が抱き続ける、オランダ社会の民主性は、すでに幻想に過ぎなかったのかもしれない。

毎日通勤している場所と時間を狙った暗殺だった。オランダ人が衝撃を受けているのは、誰もが自由に発言できる民主主義、オランダに健全として存在していたはずの民主主義の原則が、実は存在し得なくなっている、という事実を目の前で見てしまったからだ。自由な発言をしたものが凶器によって命を奪われる、、、。民主主義を根こそぎ揺るがす事件であったことには違いない。



●その後

 現在のオランダ政府は、キリスト教民主連盟CDA(第一党)が自由民主党VVDと民主66党D66と手を組んだ、(中道)保守連合である。経済不況の中で、政権樹立以来、90年代のオランダとは打って変わった新保守主義政策を推進している。ブッシュ政権に対して批判がないわけではないが、大要としては90年代のオランダ政府に比べると比較にならないほどの親米政権である。

 事件後の政府の対応は、以下のようなものだった。

 「一般情報警備局」(AIVD)が把握していたにもかかわらず、なぜ、AIVDはこの暗殺を未然に防止できなかったのか、とレムケス内務相が批判を浴びる。ザルム副首相は「イスラム急進派テロリストとの戦争が始まった」と述べ、自由民主党ファン・アルツェン党首は、「事態の深刻さが理解できていないのではないのか、対応が遅すぎる」と自党の閣僚批判も辞さなかった。 ドナー法相(キリスト教民主連盟)は、すでに戦前以来適用されたことのない(死法化している)、(神に対する)冒涜禁止法を持ち出すにいたり、言論の自由をいかなる形でも制限すべきではない、というオランダ民主主義の根幹に触れ、顰蹙を浴びた。

 

 いずれにしても、テロリストによる暗殺事件は、イスラム教徒全体に対する不信感の強化を呼び、ひいては多くのイスラム教徒を含むオランダ移民社会全体に対する不信感の広がりを生んでいる。

 現に、事件から1ヵ月半経った、昨日12月15日に、発表された、アンネ・フランク財団とライデン大学が協力して行った「人種差別と急進的右翼モニター」という報告では、暗殺事件以後、人種や急進的右翼に関係した暴行事件が非常に増えている、ということだ。これによると、暴行事件の犠牲者の60%がイスラム教徒、174件の暴力事件のうち47件はモスクが標的になったもの、という。また、右翼的傾向の強い政党、「オランダ国民連合」「国民連合」「新右翼等」「新国民党」などが、反イスラム教発言をしている上、暗殺事件以後新しい会員数を増やしている、といわれる。



●オランダの「寛容」と民主主義の行方についての議論

 このような、事件後のオランダ社会の動きを「パニック」と見ている知識人は少なくない。日本社会の分析で有名なジャーナリスト、イアン・ブルーマ氏などもその一人である。また、今月10日、オランダで17世紀後半オランダの「宗教的寛容」の基礎を築いた思想家ピエール・ベイルについての講演をした歴史家ヨナタン・イスラエル氏も、その講演録を見てみると、現在のオランダ社会の上のような動向を落胆の目でみている一人ではないか、と思われる。

 ヨナタン・イスラエル氏は、1995年に「オランダ共和国(The Dutch Republic)」という大著を著わした、現在プリンストン大学の歴史家の教授である。その著で氏は1477年から1806年の間のオランダ社会の歴史的変遷、特に、近代市民思想の確立の過程を綿密に追っている。オランダにおいて「宗教的寛容」の精神が生み出され、これを基礎とする近代市民社会が作られていることに対して、彼自身、自分は「賛美者」である、といって憚らない。そうした、オランダ市民社会への「賛美者」を自称するイスラエル氏が、この講演では敢えて現今のオランダに対する落胆を顕わにしている。

 イスラエル氏がここで引き合いに出しているピエール・ベイルとはどんな人物か。

 1647年にフランスで牧師の息子として生まれたベイルは、その後一時期カトリックに改宗するが、後に新教に復帰している。ジュネーブの大学に学び、75年に哲学教授になるが、後オランダに亡命する。旧教のスペイン王室の権力に対して、プロテスタンティズムを盾に市民社会の自由を求めて戦ったオランダは、すでに、デカルトやスピノザら、近代啓蒙思想の基礎を築く哲学者らの活動の舞台を提供していた。このオランダのロッテルダムの市立大学で、ベイルは、独善主義を批判し、宗教的寛容や思想の自由についての思想的基礎を築いた、といわれる。

 ベイルについて語っているイスラエルの言葉を講演録(NRC紙12月11日12日号)から、引用する。

「ベイルの哲学の最も重要な点の一つは、人間は、あることが真理であるとか正しい、という意見を持つものであるが、だからといって、それが本当に(誰にとっても普遍の)真理であり正しいものである、ということにはならない、という事実を捉えていることである」

「宗教は、他の信仰を持つ人々がその信仰を持つように強制したり、あるいは、信仰を持たないから排斥される、ということのために乱用されるべきものではない。そういう乱用は、その社会に社会的不安と政治闘争をもたらし混乱の因となる。このことこそが、(現代の)われわれにとっても当てはまるのだが、ベイルの思想の核心だった。」

「すべての個人は、自分が考えたい、と思うことを考えることが出来る、ということを保障されていなければならない。これが『寛容』の本質的核心である。しかしそれは人々の態度だけでは存在し得ないものである。それでは、社会全体の無関心、ひいては寛容の不在を招く。寛容の本質は、政治的指導者、教育専門家、オピニオンリーダーが協力して、宗教上の嫌悪や偏見といったものによって、あまり人々の間に人気のない意見や立場を持つ人々が、差別や抑圧などという被害を受けないように、何らかの策を講じることにある。」(カッコ内はリヒテルズ挿入)



 この講演でイスラエル氏が指摘しているのは、現今のオランダが、伝統として持っていた、また、今日でもなお周辺ヨーロッパ諸国から驚嘆のまなざしを受けることすらあった「(宗教的)寛容」の精神が、今回の暗殺事件以後のオランダ社会の対応の中には見られなくなってしまっていること、である。

新保守主義路線・親ブッシュ政権路線の現政権は、たしかに『寛容』の精神よりも警備が先行し、少数者の意見を聞くことよりもオランダのキリスト教倫理や中立思想を中心とした価値観を移民に共有させることに力を入れている。

そうした現政権の自由民主党に属するアヤン・ヒルシ・アリ女史が、命を賭して訴える、イスラム社会に内蔵された人権を軽視した行為も確かにあるのであろう。自由な言論を封殺するテロリズムは、寛容論議以前の、共同社会の基本的な約束事に対する破壊行為であることは否定すべくもない。しかし、だからといって、イスラム教それ自身を批判の対象とし排斥する行為は「寛容」の伝統からはかけ離れたものとなる。

そんな中で、オランダ在住のイスラム教徒たちが、自ら暴力反対・テロリズム反対のデモ行進を行った。イスラム教徒の移民の多いドイツでも同様のデモが行われた、と聞く。

また、人身警備を受けて国会への出席も不可能な状態にあるアヤン・ヒルシ・アリ氏が、暗殺事件後、NRC紙のインタビューの中で、「『サブミッション』の続編を作成する」と闘志を見せたことに対し、ユトレヒトとその周辺に住むイスラム系の2家族が、弁護士を通して、そうした「イスラム教を批判する行為を踏みとどまるように」と要求した。「私たちは、そうした挑発的な行為が再び暴力事件を生み、オランダ社会にオランダ人と移民の間の亀裂を生むことを望まない」と彼らはいっている。



ただここで、もう一歩突き進んで穿った見方をすることを許していただきたい。



こういう在オランダのイスラム教徒らのデモ行進による平和への態度は、確かに、民主社会の存続のために歓迎すべきものではある。しかし、ことはそれほど単純ではない、と思う。暗殺事件が起こったオランダは、今年後半ヨーロッパ連合国の議長国だった。最も重要な議題の一つは、トルコのEU参加をめぐる論議だった。もちろん、トルコが基本的にイスラム教国であることが、EU参加の議論の焦点であることは言うまでもない。今日のイスラム急進派テロリズムの緊張が高まる世界的な状況の中で、イスラム教国をEUに参加させることが、将来にわたって望ましいことであるのか、望ましくないことであるのか、の議論が行われている。結局、イスラム教国とは言いながらも、一応は「政教分離」の原則にあるトルコは、今後民主制度の整備のために積極的に改革を行う、ということを条件に、EU参加問題を、期限は決めないが、来年10月から公式に協議していくことが決まった。

オランダやドイツで、反暴力のデモ行進をしているイスラム教の大半を占めているのはトルコ人らである。EU参加の議論と彼らの意識との間には何らかの関連があろう、と思われる。彼らこそ、トルコ人としてEUのメンバーに認められたいと最も感じているはずだ。

EU拡張問題をめぐってはいろいろな議論がなされている。市場拡大、という意味では、アメリカの強権を発信元とするグローバリズムと論理的には大差はない。すべての社会事象を業績や効率で評価していく市場原理がグローバリズムの根拠である。そこで軽視され、看過され、やがて無視されるのは、社会的弱者と環境問題である。

だからこそ、イスラム教徒らの平和行進は歓迎するが、それでもなお、ここでも何か大切なものが議論されないままに過ぎていっているのではないか、という気がしてならない。その大切なものをオランダは小国であるにもかかわらず営々と守り続けていたはずではなかったのか、、、、それが、昨今のオランダからは、よく見えてこない。



ヨナタン・イスラエル氏は講演でこう述べる。

「寛容、意見表明の自由、個人個人の自由といった概念の真の歴史的かつ哲学的な意味を尊重し、そのベールを拭い去ることに対する大きな看過が支配的になっている。スピノザやベイルが何年にもわたって考えつくし、そして彼らが最終的に、究極の、創意に富んだ社会的・文化的・政治的原理を生み出すにいたった思想の数々がある。<中略>こうした無邪気さと無関心の程度は、この数年間に、政府によって示された中等学校および大学での古典古代研究への攻撃によって拡大してきている。いわゆる役に立つ(実践的な)職業教育としての、経済学・法学・技術系研究ばかりを重視するサッチャー主義者(新保守主義者)の強迫観念が西ヨーロッパのいたるところと同じように支配的になっている。そしてこれは、より大きな文化・社会・歴史的な理解に対するもの、すべてに対する軽視と組み合わされたものである。」(カッコ内はリヒテルズ挿入)



単なる自由主義ではなく、多様に生きている多様な人々の「それぞれの真理」を共存させる「寛容」の精神に基づくオランダ民主主義は、本当は、グローバリズムによって世界の至る所の人々に迫り来ている新保守主義的な価値観に、立派なアンチテーゼを発することが出来たはずではなかったのか。

「愛するオランダよ、どうしたの、、、」というのが、私の率直な気持ちである。

オランダの「寛容」がどうせ遺産になってしまったのなら、それを必要としているところへ適用する自由は私たちの手に残されている、と思う。このすばらしい遺産を誰が継承していってもいいではないか、、、と。ただ、それが「遺産」になりつつあるのではないか、と認めざるを得ないことが、オランダに在住するものとして、あまりにも哀しい。
オランダでテオ・ファン・ゴッホが暗殺されたその日、アメリカ合衆国では大統領選挙の結果が出た。あと4年、共和党のブッシュ政権が続くことになった。オランダでは、現政権は灰色ながら親米策を取ってきているが、社会全体としては圧倒的に民主党支持だった。オランダに限らず、ヨーロッパ地域の人々の大半は民主党が勝つことを願っていたといわれる。にもかかわらず、アメリカ合衆国の国民はブッシュを支持した。

オランダ人も今回のアメリカ合衆国大統領選挙には特に関心が強かったらしく、毎晩10時半から放映される時事報道・討論番組NOVAは、すでに一月ほど前より、土曜日放映分のスタジオをニューヨークに移し、特派員をキャスターにして、共和党と民主党の双方の支持者をスタジオに招き、インタビュー・討論をさせている。合衆国国内のマスメディアが、何らかの形で二党のいずれかに傾斜している傾向が強いだけに、こうして第3者のオランダの報道者がオランダの世論を反映させながら外から選挙戦を伝え、両者にインタビューをするのは視聴者としても大変興味深い。アメリカ人にみせてやりたい、とつくづく思った。さらには、与野党の国会議員やコメディアンらがアメリカの町や地方都市を歩き、市民に話しかけ、あるいは、オランダの政治家としての意見を述べ、あるいは、冗談を交えながら彼らの意識を聞き取る、といった番組も放映されている。



これらの番組を見ながら、オランダ社会とアメリカ社会の違いをいろいろ考えてみた。

まず、アメリカには、二者選択以外に中間の選択肢がない、ということだ。オランダのコメディアンに「どっちに投票するか」と問われたアメリカの一市民は、「どっちもある点ではいいことを言っているのだけど」と答える。さもありなん、と思う。けれども、アメリカには、青か赤の二つの選択肢しかない。その間の紫がないのだ。

多党制のオランダには、青や赤のほかに、たくさんの紫が政党の形を成して存在している。赤に近い紫もあれば青に近い紫もある。緑のかかった紫も。投票者は、自分の考えに出来るだけ近い紫を選ぶことができる。

アメリカの大統領選のキャンペーンでは、候補者が互いにいかに「人間的か」ということを表そうと必死で議論をし国民に訴えかけているように見えた。しかし、赤か青かを絶対化して議論する彼らが「人間的」であれる筈もない。議論すればするほど、両者は二極に分離しやがては、国民に「われわれ」か「彼ら」かの選択しか残さなくなる。本当は、「われわれ」でも「彼ら」でもなく、「私」でなければならないはずなのに。

オランダの多党政治では、国民に出来るだけ「私」であることを許す。ましてや、どの政党も一党では政権が樹立できないので、政権を立てるたびに、複数の党が集まって調整が行われる。いずれの過程においても、国民自身・政治家自身が常に、問題を議論し自己の立場を表明し、どこで妥協し、どこで主張するのかを明確に意識することを迫られる。

上の、大統領選の前に放映されたNOVAのインタビューに、民主党支持者の中年のアメリカ人女性らが招かれていた。ピンクの下着を身にまとい、反ブッシュのキャンペーンをやっていた。いい年をした、それなりに「大学」教育などを受けている選挙民が、議論でなくピンクの下着でしか選挙運動がやれない、これがまかり通るアメリカ、という国は、一体本当に「先進国」なのだろうか。「あなたがたは正気なのですか」といいたくなるのは、多分私だけではない、と思う。

二極分化は、市民の議論の力を低下させるものだ、と思う。ピンクの下着が政治論争に登場する国では、カリスマ支配への危険もものすごく高いのだと思う。なぜなら、二極分化は、人々に「どちらに属しているのか」だけを問い、多党政治のように「あなたのいう紫はどんな紫であるのか」と立場を自己で説明することを人々に迫らないからだ。

しかし、このオランダでも、2年前には、ピム・フォルテウン氏がカリスマの勢いで大衆の支持を得た。政治への無関心、議論することへの消極性、多分、ものを考えること、歴史や歴史上の思想家に学ぶこと、そういった訓練の軽視が国民の議論力を低下させ、ひいては、民主社会の基礎力を低下させているのではないか、と思う。こうした意味で、「公教育」の果たす役割がいかに重要であるか、改めて確認される。

が、戦後、一貫して、国民が自民党支配に任せ、二極分化どころか一党(独裁)政治、つまりは、「振り子が触れて民主主義が健全に保たれる」ということを人々が経験したことのない日本では、そうした議論に何かをいえる以前の状態が今も続いている。

「オレはなんてつまらない国に生まれたのだろう」とつぶやいた某作家の気持ちが、このごろ身に沁みてわかるような気がする、、、、


「プリンスの日」は必ず晴れる、というジンクスがある。「プリンスの日」とは、毎年9月の第3火曜日の政府の政策綱領発表の日のことだ。この日、政府所在地であるハーグでは、市内にある女王の執務宮ノールドエインデ宮から国家元首であるベアトリクス女王が金の馬車に乗って国会議事堂のあるビネンホフにやってくる。ビネンホフの中庭の中央にある「騎士のホール」には、総理大臣はじめ閣僚の面々、第一院、第二院の両院の国会議員ほか、諸外国の大使らが正装で着席し女王の到着を待っている。女王ばかりでなく、妹妃夫妻、皇太子夫妻ら王室のメンバーも出席するので「プリンスの日」との名がある。特に女性参列者の服・帽子は、それだけでも十分見応えがある。

 路上を行く女王を乗せた金の馬車を間近に拝見することのできる数少ないチャンスでもあり、馬車の経路の道路脇には毎年多くの市民が押し寄せる。そうして天候の悪いオランダであるにもかかわらず、なぜか、この日は、必ず太陽の光がさんさんと金の馬車を照らすことになっている。

 政策綱領発表をこうして女王の口から行うこと、それを女王や王室の面々の登場によって華々しい式典とし、それによって国民の注目を集めた日にすること、これもまた、オランダの民主主義の一つの現れ、といってよいかと思う。

 今年の「プリンスの日」の朝の天気予報は一日中雨と風が強いとのことだった。その前の週以来カリブ海地域を襲ったハリケーンの名残が大西洋を越えてヨーロッパにも届き始めているような気配だった。ああ、やっぱり今年だけはジンクスも当たらないな、と思っていたら、やはり1時ごろに雲が切れて日光が燦々とさし始めた。風はいくらか強かったが、ともかく、今年も女王の乗った金の馬車は初秋の太陽の光を浴びてビネンホフに到着した。



 明るい日光はさしてくれたものの、ベアトリクス女王が読み上げた「政策綱領」はかなり悲観的だった。「国民の政権に対する信頼が必要なのだ」と「信頼」を求めるフレーズが何度となく繰り返された。昨年の就任以来、バルケンエンデ第二政権は、ひたすら緊縮政治を進めつつある。女王が読み上げる「政策綱領」の「信頼」を求めるフレーズは、それだけ、現政権が国民の信頼を失いつつあることの証でもある。ましてや、今年は、政策綱領とともに発表されるはずの次年度の予算案、ミリウネンノタが、前週あるテレビ局で朗詠されてしまっていた。しかも、その内容は、本年度予算からさらに、25億ユーロの削減を提案するものだった。削減は、特に、社会保障、教育、医療、地方公共団体資金を対象に行われる、とのこと。昨年までは、教育や医療部門では、むしろ予算拡大が確保されていたが、ついに、こうした分野へも不況風が押し寄せている。



 中道保守の「キリスト教民主連盟」とリベラル派の「自由民主党」、さらに、最近は、きわめて保守化傾向の強い「民主66党」とから成るバルケンエンデ第二政権は、経済回復のためと称して経営者に優しく労働者に厳しい削減政策を続けている。労働者の権利保護の話し合いに応じない政府に愛想をつかした組合連合は、団結して一連の抗議運動に乗り出した。そのクライマックスは10月2日(土曜日)にアムステルダムで行われた全国統一デモ。全国から20万人以上が集まり、政権への抗議集会を開いた。戦後の労働組合運動としては、1991年に次ぐ大規模の動員だった。

が、政府側には、こうした抗議に取り合う予定はない、という。世論調査では、ついに、労働党支持率が、現政権の連合3党への支持を上回るに至った。



 かつて「ポルダーモデル」と呼ばれ、周辺欧州諸国から賞賛された労使歩み寄りの姿勢は、今のオランダには無くなりつつある。新保守主義的な政権と、この政権の政策で生活を脅かされつつある労働者の分極化が進む。


先月の末、ある旅行社から、ヨーロッパに「ピースツアー」にやってくる大学生のグループをオランダで1,2日案内してくれないか、という急な問い合わせを受けた。「アムステルダムでは『アンネ・フランクの家』ハーグでは国際裁判所のある『平和宮』が訪問先だが、まだ空いている時間があるので、できれば、オランダの学校で子供たちがどんな平和授業を受けているのか、など学校訪問して意見交換する機会などはないか」ということだった。また、このツアーのメンバーは、オランダに来る前にドイツやポーランドに行って『平和村』や『アウシュビッツの強制収容所跡』を訪ねるのだ、という。

ヨーロッパのピースツアーという名目の旅行であるのだから、ナチスの傷跡を尋ねるのはもっともなことではある。しかし、8年の歳月オランダに暮らし、様々のオランダ人に出会い、そこである一部のオランダ人が持っている日本に対する否定的な感情、それも先の大戦にまつわるものがあることを知っている私としては、やや腑に落ちないものを感じた。

オランダには、第2次世界大戦中に、当時『蘭領東インド』といわれていたオランダの植民地、現在のインドネシアの島々に多くのオランダ人市民が暮らしていた。植民地支配者とはいえ、現地人との間の関係も穏やかで平和に暮らしていた民間オランダ人の人生は日本軍の侵略によって一変した。家も財産も仕事も取り去られて、家族と別れ別れになって捕虜収容所に送られた。収容所で人権を無視した日本軍の暴力に苦しんだオランダ人市民の数は決して少数ではない。やっと生き残ってオランダに引き上げてきた人たちが今も大勢いる。謂れのない飢えと病気と暴力に曝され、強制労働に駆り立てられ、学校教育を受ける機会を奪われ、最愛の家族を失い、恐怖の中での生活で精神状態に異常をきたし、また、そうした追い詰められた環境で4年余りの歳月を暮らし他人々の中には60年近く経った今でもトラウマに悩まされている人が少なくない。

日本軍の捕虜を経験したオランダ人の多く、また、そういう究極の状況を過ごしたオランダ人に育てられた第二世代の人々には日本に対する強い反感があり、たとえ観光旅行客であっても日本人のいるところにはとても近づいていくことができない、息苦しくなってくるのだ、という人さえいる。けれどもその一方で、その過去の醜く耐え難い記憶を乗り越え、戦後の若い日本人と出会い、日本人の戦中・戦争直後の苦しみを理解し、将来の世界平和のために和解しなければならない、と努力しているオランダ人も少なくない。

こうした、敢えて日本人との対話を求めようとするオランダ人と、在蘭の幾人かの日本人が対話の会を持っている。私自身も子の会合に出席し、何人もの捕虜体験のあるオランダの人々と対話の機会を持ってきた。そして、これらのオランダ人との交流を通じ、日本人のものの考え方、社会についての見方を幾度も再考させられてきた。



そういう背景があったために、上の旅行社からの問い合わせに対して、少し考えた後思い切って「せっかくならば、日本の戦争の過去に直接関わる、日本軍の捕虜体験を持つオランダ人と対話をしてみませんか」と申し出てみた。誰しも戦争犯罪について第三者として静観することはできても、自らが属する民族の過ちに触れるのは心に強い痛みを伴う。断られるかもしれないことは覚悟の上だった。

しかし、旅行社からはすぐに『同意』の返事を得た。これはよかった、と心から思った。



早速、よく知っているオランダ人のFさんに連絡をしてみた。Fさんは6歳のときにジャワの捕虜収容所に強制収容され、そこで母親を失っている。熱心なクリスチャンだったお母さんを、苦しい収容所生活の間支えたのは『神への信頼』で、亡くなる時に「日本人を恨んではいけない。この人たちも神の子なのだから」とFさんに言い残したという。しかし、Fさんの引き上げ後の生活は決して楽なものではなかった。対戦中ドイツに占領されていたオランダは、疲弊しており、オランダ国民も飢えに苦しんでいて、インドネシアの引揚者にとても援助をできるような状態ではなかった。蘭領東インドの引揚者の苦しみなど、当時のオランダ本国の人々には考える余裕はなかった。皆が自分のことに精一杯だった。そんな中で、Fさんは、過去に目をつぶり日本や日本人への反感を心の奥にしまって戦後の時代を生きてきた。

しかし、退職とともに蓋を閉めていたはずの過去が心に立ち現れてきた。長い間感情の外に追いやっていた日本への反感が否応なく現れてきた。何とかせずにはおれなかった。在イギリスの日本人女性が設立したアガペー協会のツアーで、イギリスの元兵士たちとともに日本の地を踏んでみよう、と決心した。家族の財産を一切奪い取り親を奪った日本をこの目で見て過去に対する決算をつけたい、との気持ちだったようだ。

こうしてFさんは昨年日本を訪れた。外国人捕虜が強制労働をさせられていた鉱山のある街を訪れ、慰霊碑を守る人たちと出会った。学校の子供たちとも交流した。沖縄も訪問した。涙を流して日本の過去の過ちを詫びる日本人と手を握り合った。Fさんにとって、日本訪問は、今の日本に戦時中にFさんに苦しみを与えた兵士らとは異なる、平和を愛する人々がいることを確認することであったし、また、和解を求める人たちに握手をし、将来の世界平和に向けてともに働くことでもある、と理解した。

けれども同時に、Fさんはこの日本訪問中にも心に浮かんだ疑問を見逃すわけにはいかなかった。「今回のツアーで訪れた日本で出会ったのは、キリスト教の信者がほとんどだ。日本人で平和への努力をしているのはキリスト教の信者だけなのだろうか。一体大多数の他の日本人は、自分たちのようなオランダ人がいることについてどう思っているのだろうか。確かに涙を流して握手を求めてきた日本人の老婦人はいた。けれども、会場の後ろの方には感情を表情に出さずに義務的に握手を求めた戦前世代の男たちがいた。彼らは何を心に抱いているのだろう」と。

この日本ツアー以後、私は、Fさんとは、彼が日本で知り合った人たちへの手紙の翻訳、ツアー参加記の翻訳などで親しくしている。Fさんは当時のインドネシア地域が、ヨーロッパや日本の政治的関心の中でどのような位置におかれていたのか、また、日本の文化や人々のものの考え方などについて、一人で歴史を紐解き、関係書を読んで理解しようと努力されている。

そんなわけで、今回日本からの大学生の「ピース・ツアー」の話があったとき、私は彼らにFさんと交流してもらってはどうだろう、と思いついたのだった。Fさんの生の体験を日本人の学生に聞いてもらいたい。Fさんが心に抱いている疑問を大学生との交流で話してみればよい。戦争を知らない若い日本人が率直にFさんと対話をしてみればよい、と。

Fさんは二つ返事で、「ぜひ参加したい」といわれた。



あわせて「桜の会」のMさんにも、会への参加を依頼した。「桜の会」というのは、戦時中に現地にいたオランダ人や現地人との混血の母親と日本人の父親との間に生まれた子供たちの会である。理由や背景はどうであれ、こともあろうにオランダ人捕虜に対して人権を無視した待遇をした日本人と関係を持ったというだけでこの人たちの母親らは、同じようにインドネシアから引き上げてきた他のオランダ人からも蔑視され差別されてきた。多くの場合、日本人の男たちとの関係を否定し、子供たちにすらその事実を隠して生きてこなければならなかった。が、子供たちは大人になる過程で自分の出生の秘密に疑問を持ち、あるいは、その秘密を知ってしまう。そしてその事実と折り合いをつけて生きていかなくてはならなかった。本当の父親を知りたくて父親探しを始めても日本政府は相手にしてくれない。助けてくれる日本人の力を借りてやっと父親の身元を探し当てても、父親は会ってくれるとは限らない。大半の父親もまた戦時中の出来事に蓋をし日本で生き延びることに精一杯だった。

それでも混血の子供たちに、日本に郷愁を持つ人は少なくない。血のつながった父親の祖国はこの人たちにとっても祖国なのだ。満たされないアイデンティティへの希求が日本への感情を高ぶらせる。



9月上旬のある日、半日間、ハーグ市内でFさんやMさんらと日本人大学生8人が交流会をした。



Fさんの「私の話は衝撃的であろう、と思う。けれども私は、血なまぐさい戦争には関係したこともないし、またそれについて到底咎めを受ける立場にはない戦後世代のあなた方を責めるつもりはまったくないのです」と話し始められた。はじめから「許されている」ことでこの日本人の罪について却って深い衝撃を受けた学生たちは少なくなかったと思う。

日本人学生の一人がMさんにこう聞いた。「あなたのお母さんはどのようにして日本人兵士と知り合ったのですか?」と。

Mさんは「私の母は、他の数人の娘たちとある駅前で売春宿に送られるために日本軍兵士によって集められていました。そこにたまたま通りかかった私の父が事情を聞いて母たち数人をうまく逃がしてくれました。そして、あとで父は母と祖母とをかくまってくれました。そして父と母との間には愛情が芽生えたのです。若い頃の私は、この母の話を聞いて、二人の関係が本当に愛情と呼べるものなのか、状況の中での打算ではないのか、と思ったものです。でも、今すでに80を過ぎた母は、戦時中以来二度と父に合うことはなかったのに、今でも父の話をします。父から手紙がくることをずっと待ち続けていました。父のことを本当に愛していたのだと思います」と応えた。



3時間ほどの対話の時間に、学生らは、植民地支配下にあったインドネシアでのオランダ人と現地人との間の関係についても質問をした。また原爆投下についても語り合った。オランダがドイツから解放されたときの様子、その当時、飢えと貧困の中で心のすさんでしまった人々が戦時中ナチスの協力者として働いたオランダ人に対して行った行為についてもオランダ人は語った。見苦しい行いだった、と一人は言った。「人々がばたばたと倒れていく死と隣り合わせの飢えを体験すると、人の心はこんなにもすさんでしまうのだ」と。ここに到底書き連ねることができないほど、貴重で率直な発言が、オランダ人市民と日本人の若い学生の間の穏やかな対話の中で静かに繰り返された。



平和問題について論文を書いている、という一人の女子学生が「これまで平和の意味が本当に自分にわかっているのか、戦争を知らない自分にはわからず論文が行き詰っていた。今日の交流で問題を乗り越えるきっかけがつかめた」と涙を流して参会したオランダ人らに伝えていた。



為政者の利害に翻弄され、戦争の殺し合いに駆り出された庶民は、戦争が終わっても尚、長い間、お互いに憎しみ合う。何のために誰によって始められた戦争かを知らないままに時代の波に飲み込まれることも多いと思う。が、例え強制された状況であったにせよ、他国人を苦しめてしまえば、その苦しみを受けたものから受ける憎しみは何世代も続いていく。



憎しみの連鎖が絶たれるために、人と人とが直接に出会い、語りづらいことを敢えて語り合うことは大切なことだ、と思う。

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