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エッセイ:オランダの教育事情
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オランダの教育については、旧「オランダ通信」バックナンバーの『教育と社会化』のカテゴリーにも28記事収録しています。あわせてご覧ください。
性教育とは愛することを学ぶため(08.03.21)

<表現の自由>とは、他の人に反対してもいいということ
ーーーーーオランダのシチズンシップ教育ーーーーー


オランダの学校を訪問する:教育の自由の利点と問題点(06.04.11)

オランダの教育を国際的視点から評価すると(05.11.03)


エリートはどうやって育てられるのか(05.08.20)

教科書の呪縛(05.05.25)

大学のオープンデー(05.04.20) 

マーストリヒト大学のPBL(Problem Based Learning・問題解決型学習)方式 (05.04.20) 

生徒のための福祉ケア・コーディネータの仕事 その2:
 親や学校外機関との連携・できる子供の指導 (05.04.20)
 

一斉授業の問題点と個別指導の本当の意義 (05.04.13) 

イエナプラン教育における学校教育の八つのミニマム条件 (05.02.01)

イエナプラン小学校訪問記 その1 教育における「真正性」(05.01.30)

生徒のための福祉ケア・コーディネーターの仕事 その1 習熟進度モニター制度 (05.01.25)

インターネットによる発達進度の保護者への通知 (04.10.18)

入学試験か卒業資格か (04.10.12)

(1999年10月−2004年9月)
* オランダ語サイトのオンライン翻訳は、ここここから出来ます *
性教育とは愛することを学ぶため(08.03.21)

 世界最古の小説「源氏物語」は、日本のプリンスが、あまたの女性とかかわり、悦び、傷つき、悲しみ、途方にくれる愛の物語だ。万葉集、古今集、新古今集の時代から、日本の男と女は、歌に託して、人間の体の欲望、抱き抱かれることの喜びと苦しみ、愛の成就の喜びとそれが崩れることへの不安、求めてやまない愛とそれが叶わぬときの憎しみ、そして失恋の苦しみを、心模様だけにとどまることなく、身も心も一体となった感覚として描いてきた。

 それなのに、ああ、それなのに、わが日本の現代の性教育は、性の喜びや愛することの大切さを、子どもたちに教えようとしない。性と言う、人間の営みの中で最も根源的なものを避けて通ることで、子どもを人間として育てることから、すっかり手を緩め、子どもたちを、愛を伴わない性の氾濫の中に放置している。

 オランダの性教育は、小学校の低学年から始まる。

 国立カリキュラム研究所が作っている性教育の指導書は、多くの小学校の性教育の指針になっている。その内容をおおざっぱだが紹介してみよう。(引用部分は太字)

まず、性教育の目的から

子どもたちが自分自身と他者に対する尊重の念を持ち、自分と他の人の感じ方、望んでいるもの、意見、可能性などを意識でき、性に関連する事柄を、よりしっかりと判断できるような人間として成長するように支援すること。

そのために、性教育を教える際の分野として、次の3つの観点を挙げている。

分野1:身体と情動の発達

分野2:社会的発達と人間関係

分野3:性と健康管理

これらの分野をカバーして性教育を企画するために、次のようなことを考慮に入れている。

  • 自分と他の人、他の人の間には違いがあることを知る。
  • 性犯罪と性非行について(兆候は何か、助けの求め方、学校の中で起こる可能性のある性虐待)
  • エイズとHIVについて
  • 親とのかかわり、特にさまざまの文化的な背景を持つ家庭があるという点について


ここで、さまざまの文化が相互に隣り合って存在しているオランダ社会の問題が、まざまざと明らかになってくる。そして、それについて、次のように、細かく展開して、性教育にかかわる人々に注意を促していることにも驚く。         

文化について

文化的な刷り込み、文化間交流の必要、文化は多くの場合自分では意識されないということ、文化と個人について、文化と摩擦について、文化の変容ということについて

  多言語について

              言語を学ぶ、多言語能力と遅れ、教育における多言語性

  国際教育について

異文化間のコミュニケーション、他の人との違いとのかかわり方、共通性の強調ということについて、目標

  性に関連して

イスラム教徒の子育てとキリスト教徒の子育て、スリナム人の考え方、アンチル諸島の人々とアルバ島の人々の考え方、文化的な違いとのかかわり方

 

さて、簡単だが、低学年(4−6歳児)、中学年(6−9歳児)、高学年(9−12歳児)の、性教育の中身を、見出しだけをランダムに抽出したものだが、見てみよう。

1.低学年(4−6歳児)

I.身体と情動の発達

1.    自己イメージ

鏡を見る
自分を変えてみよう

あなたと私の共通点は?
あなたは自分のどこが好き

あなたはだれ?

あなたは手に何を持っている?
あなたは何をしたくない?(あまりやりたくないこと、人の話を聞きたくない、とか、こんなことは凄く嫌いとか)

私のからだ

私は人と違う、それとも同じ?

2.    裸 (お話と会話)

一緒にお風呂へ

マーイケ(女児の名)はどうしてロビー(男児の名)と一緒にお風呂に入りたいのかな?

3.    いい気持ち(発見学習やお絵かき)

サークルをつくってみんなで1:物を手で感じさせる
サークルをつくってみんなで2:腕をまくる、靴を脱ぐなどして肌寒感じを感じさせそれについて話をさせる

サークルをつくってみんなで3:靴箱に物を入れ、手を差し込んでいろいろなものを感じさせる、(目隠しをして)頬、腕でもの感じに触れさせる

4.    男の子それとも女の子(パズル、車座になっての活動)

絵を見せて体の部分の名前を言わせる (ペニス/ワギナはどこ?

5.    あなたはどんな風に生まれてきたの?(車座になっての活動)

おなかの中にいたあなた

赤ちゃんはおなかの中でどんな風に育つの?

赤ちゃんはおなかの中で何ができるの?

あなたはどんな風に生まれてきたのかな?

(まず子供たちに互いに話をさせる。それから、赤ちゃんは母親のワギナ

から生まれることを教える。帝王切開や未熟児で生まれる子供のことも。)

II.社会的発達や人間関係

6.    ボーイフレンド・ガールフレンド

7.    撫でるということ: 撫でたり撫でられたりする時の気持ちについて

友達について

友達を作る
「君がすきだよ」

8.    誰と暮らしている? (お絵かきと車座での会話)

9.    ぬいぐるみと(車座でのお話、人形遊び、それぞれ自分の好きなぬいぐるみを持ってきて)

どうしてぬいぐるみを撫でると気持ちがいいのだろう?
どうしてぬいぐるみを撫でてあげたいのかな?
ほかにどんな人と撫でたり撫でられたりする?
どんな風に撫でてあげるの?
誰かやって見せてくれるかな?

10.  気持ちの良い接触と気持ちの良くない接触

III.性と健康

11.  すっかり清潔に

体をきちんと洗いましょう
手を洗いましょう

12.   自分のからだをきれいにする

2.中学年(6−9歳児)

         I.身体と情動の発達

1.    自己イメージ

電話をかける

自分の絵をかく

私が気持ちよいと感じること(会話、絵、お話)

わたしにそっくり(何かを見ながら、特徴、コレクション、お話)
性に関する兆候

インタビューをする

2.    どんなことが気持ちいい?

やってみせて
いろいろな形で自分の体に触る:引っ掻く、親指を吸う、自分自身をくすぐる、洗う、タオルで拭き取る、何かを塗る、痛いところを擦ることについて、髪を梳く
からだの部分によっては他の場所と違う感じ方
感じたことを書いてみよう

3.    男の子と女の子

絵を見て違いを見つける

4.    どんなふうに生まれてきたの?

子どもたちに親にインタビューさせる(どんな風に生まれてきたの)
何ヶ月で生まれたの、

どこで(家、それとも病院?)
どんなふうに
出産についてどう思った?
出産は大変だった?
夜、それとも昼?
誰がそばにいたの?
生まれた時の体重と身長は?
ほかに特別なことは?
(
まず学校でインタビューの練習、インタビューの後はみんなで話し合う)

5.    お母さんの学校訪問

できれば子供を産んだばかりのクラスの子供のお母さん、インタビュー

       II.社会的発達と人間関係

6.    男の子と女の子

7.    男の子と女の子のお互いの共通点と違い

遊びをする時の共通点や違いについて話し合う

8.    偏見と差別

9.    “求むパートナー”

子どもたちに友達求むの広告を作らせる
年齢、趣味、大切な性格、
ナンバーをつけて壁に張る
反応してもいいししなくてもいい、反応のない子もいても良い

10.  友情を保つ(会話、ロールプレイ)

友情は、喧嘩、引っ越し、ほかのこの方がやさしい、時間がない、学校やクラスが変わった、興味が変わったなどの理由で壊れることがある。
このような体験について子供たちから話を持ち出させる

11.  恋をしちゃった(手紙に返事を書く)

コピーに書かれたラブレター、それに返事を書く

こういう手紙を書くのは難しいと思った?
手紙の中には自分も経験したことのあることが書かれていた?
その時あなたはどうした?
あなたも同じようなことがあったら雑誌に投稿してみたいと思う?
恋をしているってどんな感じなのかな?
いい気持ちかな、それとも、いやな気持かな?

12.  わたしが好きなこと

13.  関係について

関係って何?
関係にはどんなものがある?
  夫婦、同居、別居だがパートナーの関係、友人関係、ビジネスパートナー、親戚関係、同性愛の関係

14.  一緒に暮らすということ

あなたは誰と暮らしている?
ほかの人は誰と暮らしている?
暮らす人が変わることがあるかな?

15.  セックスって何?

1)セックスという言葉についてどう思う?(私は、クラスメートは、大人たちは)

)どういう感情がセックスには伴うの?
かわいい、愛情、興奮、緊張、恥ずかしさ、変な感じ、喜び、全然いいものじゃない、あたたかさ、冷たさ

(私は、クラスメートは、大人たちは)

3)セックスという言葉にはどんな行動が含まれている?
キスする、撫でる、腕を組む、見つめあう、いっしょにわらう、他の人を見る、服を脱ぐ、性交をする、舌でキスする

      III.性と健康

16.  割礼について

17.  性犯罪について

性犯罪とは何か、
そうなったら、どうやって助けを求めるか

性虐待の例
 プールの更衣室で頼まれないのにタオルで体をふいてくれる
 海岸で頼まないのにサンクリームを体に塗ってくれる
 電車の中で隣の人が脚に手をおく

                 聞きたくないのにセックスの話ばかりを利かせる

                もしもそういう場面に出会ったらどうしなければならない?

3.高学年(9−12歳児)

I.             身体と情動の発達

1.
自己イメージ

  
  自分についての本を書こう

  誰もいない島に(何を持って行く?)
  どうして人は私が好きなのか?
  無記名でだれかに手紙を書く

2. 私はだれ(自分のスケッチ)?

3.

  誰かほかの人があなたが裸のところを見たら恥ずかしいですか?
    
誰ならあなたが裸のところを見てよくて、だれは見てはいけない?
  誰かが裸のところを見たことある?

  どう思った?

4.あなたは誰に似ている?(家系ツリー)

5. 私は変わる

  私の体に何が起こっている?

声変わりについて、どうして?

  メンスが始まった、これは普通のこと?

  思春期って何?

 (男の子)胸が少し大きくなった、これ普通?

6.相談所 “Help”について

7.最愛のリタさま

マスターベーションについての子供の手紙(教材として作られたもの)を使って話し合う

8 赤ちゃんはどうやってできるのだろう?(本を読む)

II.           社会的発達と人間関係

9.
性的役割

 
 特別の子供

 男の仕事と女の仕事

 広告 (TV広告の中での性的役割、ステレオタイプについて)

 役割を変えてみる (演劇)

10.友情と恋愛

  違いについて話をさせる

11.おしゃれ

12.関係

ほかの人はどう思う?
自分ではどう思う?

            13.セックスって何?

 商業の役割

雑誌やテレビが作り上げるイメージ

14.本当、それとも嘘

子どもにメディアはしばしば男、女、セックス、愛について現実的でなかったりねがてぃうなイメージを与えることを知らせる (コラージュ、ヴィデオを使って)

III.         性と健康

15. 子供を持つか持たないか

  なぜ子供のいる人といない人があるのかを考えさせる

 子供をもうける理由、設けない理由について人はどんな風に考えているのか

 どういう状態だったらあなたは子どもをほしいと思うだろう

どういう状態だったらあなたは子どもをほしくない、と思うだろう。

             16.避妊具

                            コンドーム、ピル、リングについての知識

    17.安全なセックス

             
            エイズ、性病、望まない妊娠を避けるため、
                           
ポスター作り

                            追加:性病協会のパンフレット

    18.  からだの健康

体を清潔に
その際性器の清浄も忘れずに

19.性虐待について
             
   性犯罪・性虐待とは何か

男の子の問題、女の子の問題?
誰がそんなことをする(家族や知り合いでも)
何ができる(逃げる、ノーという、歯向う、助けを求める、信頼できる人を探す、ヘルプセンターに電話する)

  子供電話相談・授業中この電話番号を前に立てておく

  もしそんな場面に出くわしたらあなたはどうする?

 性(身体)の問題は、愛(精神)と切り離すことはできない。切り離したとき、人は、自分の体と他人の体を、モノとして扱い、そしてそれは、他人を傷つけるとともに自分自身をも深く傷つけることになる。

 愛のない性は、欲望の満足に他ならない。そういう性を続け甘んじるのは、家畜と同じ扱いを受けた人間たちだ。

 今、日本にはびこっている愛のない性は、性というものが、愛なくしては砂を噛むように惨めなものであり、愛は、本来、自分自身を大切に尊重する心なくしてあり得ない、ということを、誰も教えられたことも教えたこともないからなのではないだろうか。

 家庭が壊れ、コミュニティが成り立たなくなっているのは、日本に限らない。それでも家庭生活を保とうと努力するのか、学校が家庭に失われつつある役割を少しでも社会の力を借りて取り戻そうとするのか、、、その点で、手をこまねいて、面倒なことを深く考えることをあきらめ、無責任に投げ出している日本の大人たちと、なんとかしなければ、と努力しているオランダの大人たちの大きな違いがあるように思う。

 

小学生の死刑賛否議論

 今年の初め、ある小学校を訪問したら、偶然こんな光景に出会った。

 小学校456年生の混合クラスだ。30人ほどの生徒が、先生とともに車座になり話し合いをしている。議題は、実は、死刑賛成・反対の討論会だった。そういえば、その直前の冬休みに、イラクでは、独裁者といわれたサダム・フセイン元大統領が処刑されたばかりだった。

 オランダでは、もとより死刑は行われていない。オランダの法律では、死刑は存在しない。だが、そのオランダで、このクラスの先生は、子供たちに、死刑賛成か反対かについて議論をさせていた。赤いカードと緑のカードを渡し、死刑賛成は赤、反対派は緑のカードを上げて、自分の立場を示す。それから、それぞれ、なぜ賛成なのか、なぜ反対なのかについて、自分の意見を言う。理由を挙げていくうちに、子供たちは、死刑の意味についておのずと考えを深める。

 先生は、生徒たちの議論のファシリテーターをしているが、各人の議論に、「いい」とか「悪い」といった評価を下すことはない。ましてや、「オランダでは死刑は廃止されているのだから、みんな死刑に賛成してはいけないね」などといった安直なことは軽々しく言わない。

 そうではなく、子供たち自身に考えさせるのだ。子供たち自身が、<死刑>をテーマとし、それが認められている国、認められていない国があるという事実に触れること、なぜ、ある国では認められてほかの国では認められていないのか、について考えてみること、死刑を宣告されている人とはどんな犯罪を犯した人たちなのか、人間が人間を裁く際に、死を持って裁くことにどんな正当性が成り立ちえるのか、どんな犯罪であったにせよ、一個の人間の死を、国や社会といった力を使って正当化することができるのか、について考えてみること、そういう機会を与えようとしている。

 子供たちの思考力・想像力を育成し、見慣れたオランダ社会を超えた世界の実情を垣間見る機会を与える、ということだけをとりあげても、教育的に大変に意義のあることだ、と思う。

 こんな場面が、今の日本の学校にいったいどれくらいあるだろう。

 

カトリック校での世界五大宗教プロジェクト

 それから三ヶ月ほどして、今年の春、今度は、別のカトリックの小学校で、こんな光景に出くわした。カトリック校だというのに、どのクラスにも、イスラム教やユダヤ教、ヒンズー教、仏教などについてのポスターや装飾品が教室に所狭しと飾られていたのだ。4週間あまりの時間をかけて学校全体でやっているワールドオリエンテーション(総合学習)の一環で、「世界の五大宗教」というテーマで取り組んでいる学習の成果なのだそうだ。五大宗教とは、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、ユダヤ教、仏教のことだ。

 低学年の子供たちは、これらの宗教にまつわる、行事、シンボル、聖なる場所、などについて、雑誌やインターネットなどから写真を探してきたり、切り紙・貼り絵などで、シンボルを形作ってみたりしていた。

 高学年の子供たちは、五−六人ずつでグループを作り、五大宗教のうちから、それぞれひとつを選んでテーマにし、それについての情報を集め、地図や写真なども加えてグループごとに本作りに取り組んでいた。あるクラスでは、グループが6つできてしまったので、五大宗教に加えて「ヒューマニズム」を研究対象にすることになった、という。

 たまたま訪れた私が日本人だったので、生徒たちは、日本人の宗教は何なのか、とか、どんな宗教上の習慣があるのか、とかそれは熱心に聴いてきた。

 

宗教や道徳教育についての最近の議論の背景

 

 上のような教育は、オランダの学校ではこれまでにもそれほど珍しいものではなかった。時事について学校教育の中で話題として取り上げる、というのは、小学校の「中核目標」に明示されているし、教育監督局も、そういう時事に関する議論が学校教育の一環になっているかどうかを監査しているから、どんな学校にいつ行っても たいてい、そのときの時事についての新聞切り抜き、討論会、レポートなどにすぐに出会わす。

 だが、宗教教育を、それぞれの学校がよって立つ宗教理念を超えて、より一般的で普遍的な知識として客観的に議論していく、というやり方は、どちらかというと新しいものではないか、と思う。なぜなら、オランダの学校は、「教育の自由」が確立した20世紀の初頭以来、大半が、独自の宗教的・非宗教的な理念を持った私立校として経営されてきており、したがって、学校の宗教的な立場は、常に、前提として明らかにされる傾向が強かったからだ。

 

今からわずか半年前、今年のはじめ1月に、オランダ政府のお膝元であるハーグ市では、毎年恒例の<冬の夜(winter nachten) 」国際文学フェスティバル>が開催された。時の話題をテーマにして、作家・評論家・研究者などが集まり、複数のシンポジウムや講演会を同時開催するものだ。毎年、市井の知識人らが大勢集まるフェスティバルだ。今年は、そのなかで、<Living Apart Together (棲み分けながらも共に生きる)>というテーマのシンポジウムに私も参加した。発表者は、日本・中国通で知られる作家・評論家のイアン・ブルーマ、両親が日本占領期のインドネシアからの引揚者である(反日)作家のアドリアーン・ファン・ディス、ハーグにある世界的にも有名な『社会科学研究所(ISS)』の宗教史家ヘリー・テル・ハール、インド人作家のパンカジ・ミシュラで、コーディネーターを勤めたのは、オランダとフランスで活動しているモロッコ出身の若手新進作家フアド・ラルーイだった。

そして、この時に、『棲み分けながらも』『共に生きる』ことを余儀なくされているものとして話題とされたのが、現在、オランダ(ヨーロッパ)にいる、宗教を異にするさまざまの集団(キリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒、自由主義者ら)のことであったことはいうまでもあるまい。

面白く盛んな議論が、会場からの活発な発言も含めて進められた。その中で、私にとって特に印象に残ったのは、宗教史家のヘリー・テル・ハールが「私たちは、これから、子供たちに対して、『宗教教育』(religious education)ではなく『宗教についての教育』(religion education)をしていかなければならない」といったことだった。

 

実は、ヨーロッパやアメリカの実情に触れる機会が少ない日本人には想像しがたいことであるかもしれないが、『宗教』をめぐる社会的な不安は、現在、欧米の、いわゆる『西洋』先進諸国では、きわめて深刻で現実的な問題になっている。

だから、日本でも盛んになっている「道徳」見直し論は、欧米でも、それなりの文脈で、非常に先鋭化された具体的で深刻なテーマになっている。

 

2001年の9.11事件は、その意味で、時代を画す重要な事件であったといえよう。

911事件は、一方では、キリスト教理念によって成り立つ社会に対するイスラム教の価値意識からの挑戦状であったという意味を持ち、また、もう一方では、経済市場のグローバル化によって、先進キリスト教社会に蓄積されていく富と、後進イスラム世界の底辺に増える貧困とを背景にして、両者の国々の人と人の間の極端な不平等に対する、奪われ遅れた世界からの、暴力を行使した抗議だった、ともいえよう。

この9.11事件は、オランダでは、どんな波及効果を生んだのか。

2002年まで政権の座にあった労働党は、それまで、オランダの伝統に基づいて、移民に対しても寛容な、少し悪い言い方をすれば、放任的な政策をとってきた。労働者として移り住んでくる移民、政治難民として難を逃れてきた難民たちに、居場所を与えるばかりか、福祉予算を使って、他国とは比較にならないくらい寛容に移民を受け入れてきた。受け入れるばかりでなく、追徴予算を使って、オランダ語教育をはじめとし、移民たちの同化を積極的に支えてきた。

しかし、経済的に好況期が続いた2000年ごろまでは、誰の目にも問題としては映らなかった移民の同化問題が、やがて、不況期を迎えるにあたり、次第に表ざたに議論されるようになった。(この通信でも詳しく報告したピム・フォルテゥンの発言などはその典型だ)そして、その背景には、911事件をきっかけにした『イスラム移民は信用ならないやつらだ』という意識の広がりが明らかに影響を与えていた。

実際、かつては、移民の積極的な受け入れは、いずれオランダにもやってくる高齢化社会の時代に、若い労働力を提供して、国庫財政を支える力になるだろう、と考えられた時代もあった。しかし、移民たちは、多くの場合、教育にも労働市場においても、オランダへの同化に必ずしも積極的であるとはいえなかった。オランダ語ができない、しかも、出身国では社会の底辺部から押し出されてきた移民たちにとって、外国それも先進西洋社会への同化は必ずしも容易ではなかったはずだ。失業していても、職探しをせず、家族呼び寄せでオランダにやってきた妻たちは、オランダ語を学ぶ意欲も、オランダの社会に同化する努力もない場合が多い。都心部の学校には、90%以上が移民という学校が増え、しかもそれらの学校の保護者たちは大半が失業している、という事態が蔓延し始める。子沢山の移民の家庭は、失業手当のほかに、子を生むことで、児童手当を受け、生活費の足しにしている、とまでいわれた。

一方で、少数者とは言えども、オランダに同化し、エリートとしてビジネスマンとして成功していく移民がいるにもかかわらず、この時期、上のような低下層の移民たちのネガティブな面がひどく批判されたのは、グローバリゼーションによって経済競争が世界規模になっていく中で、特に、低所得の労働者たちの間に経済苦境を強いられる不満があったからだろう、と思う。

彼らが、一生懸命働いてやっと稼ぎ出す所得から差し引かれる税金が、『同化する意欲もなく』『オランダ語をしゃべろうという気もない』ましてや『どんなテロ行為をやらかすかわからない』『異教徒の』移民たちの失業手当や児童手当になっている、という意識は、そのころから、移民一般を、排斥し、差別する論調を急速に強めていったように思う。たとえ、それが『移民』をことさらにスティグマにしてしまうメディアや右翼政治家たちの扇動があったのだとしても。

 

こうして、キリスト教(やユダヤ教)を中心とする西洋的価値に支配された世界と、イスラムの伝統的な価値に支配された世界とが屹立する中、200411月、白昼、アムステルダムの路上で、映画監督テオ・ファン・ゴッホが、イスラム教徒と名乗るオランダ人の若者に暗殺された。『表現の自由』を絵に描いたような、これまでならば、単に「挑発的」といわれて済まされただけの行動をしてきたテオ・ファン・ゴッホが、まさか、路上で、犯人と目と目を合わせた対面状況で、胸に銃撃をうけるなどとは、9.11事件を知らない時代のオランダ人には想像もできないことであったに違いない。

しかも、銃殺されたこの映画監督の胸には、さらに、ユダヤ教徒であるアムステルダム市市長、イスラム教の出身でありながらモハメッド批判を辞さず、イスラム社会の女性解放のために急進的な自由主義思想を公に展開していたアヤーン・ヒルシ・アリなどの名を上げ連ねて、彼らの暗殺予告をした脅迫状が短剣とともに突きさされて残されていたのだ。

国会議事堂周辺ですら、厳重な警備を敢えて避け、政治家に混じって市民が闊歩できる『民主社会』『市民国家』のオランダを誇りにしていた市民たちにとって起こるべきもない目を覆いたくなるような事件だった。しかも、暗殺犯は、オランダの学校で教育を受けてきた青年だったのだ!!!

 

オランダの人々の<ポストモダンな>価値意識と、そのオランダに移り住んできた移民たちが、家庭や近隣や出身国の記憶として抱えている<前近代的な>価値意識との間に、どう超えようもない大きな溝があるらしいことが、徐々に明らかになっていった。

その意味で、このときのオランダの事態は、デンマークで起きた風刺画事件と、同じ質のものだった。

西洋人たちは、啓蒙主義の時代以来、キリスト教をも含め、宗教や王室の権威など、外からの権威的な価値意識でものを考えることを敢えてやめ、個々人が各人で善悪の判断をすることをよしとしてきた。それこそは、『良心の自由』の基盤であったし、個々人が、他の誰からも力による影響を受けることなく、自分の頭で批判的に善悪の判断をするという姿勢を生んできたからだ。それは、とりわけ、戦中・戦後世代のオランダ人に関して言えば、あの醜悪なヒトラーの時代の全体主義を回避する<人間の英知>としてもなくてはならぬものであった。

だが、その表現の自由・良心の自由の顕現には、退廃の影も付きまとう。西洋近代主義に基づいた選択の自由としての、女性解放、同性愛者の権利保護、といったものは、たとえそれが彼ら自身の間では議論し尽くされたものであったとしても、その議論を共有していない、つまり、まだ、前近代的な価値意識の中で暮らしているものにとっては、単なる退廃として映ってしまう。

バス停やビルに大きく張り出される女性のヌード、街頭で臆面もなく抱きあい、キスを交わし手を組んで歩く同性・異性愛者たち、おへそをむき出して歩く女の子、中学生から当たり前の性交渉、、、それは、常日頃からベールをかぶることを当たり前と感じているイスラム教徒の女性、同性愛は病気か犯罪といわれている人々、男性と目を合わせただけでもはしたないといわれているイスラムの女の子たち、といった文化の中にあっては、不道徳・退廃以外の何ものでもない。

オランダ人のボーイフレンドと付き合っていることを理由に、ムスリムの少女たちが、親族から折檻され、果ては、家族の恥をぬぐうためにと身内に殺されてしまったというような事件は、オランダにいる人なら、一度ならず耳にしたはずだ。

ポストモダンの社会を生きるオランダ人は、移民を『遅れた、表現の自由よりも暴力を行使する野蛮な人々』と見、また、家庭で日に五回の祈祷と伝統的な男尊女卑・権威の位階制の中で暮らしている移民は、オランダ人を『金のことしか頭にない、道徳心など微塵もない、摩れて傲慢なやつら』と見てしまう。

オランダ人がどんなにイスラム教徒の行為を民主社会の言論文化を知らない野蛮な『テロ』呼んでとみても、コーランを字義通りに受け入れる急進的なムスリムにとっては、西洋文化は、『テロ』をもってしても排すべき腐りきった消費社会の退廃なのだ。

イスラム移民を大量に抱えたオランダでは、社会不安は広がり、治安の課題が限りなく膨らんでいく。

 

シチズンシップ教育の義務化

だから、シチズンシップ教育のための教材や方法を提供しているハーグ市内にある教育サポート機関の専門家を訪れたとき、若い彼女が『私たちは、いつまでも警察官を限りなく街路に送るわけにはいかないのです。』といったのは、実に印象的だった。

学校教育が、こうした社会不安を解決するために何らかの役割を果たさなくてはならない、という意識が、徐々に広がっていったのは不思議ではない。

宗教も文化も、そして近代化の過程をも共有していないさまざまの人々が、共に市民として自律的に、かつ、協力して社会を作っていくために、学校は何をすべきか、という問題が、比較的短期間の間に、広く論議されるようになった。

そこまで、この国の治安問題は深刻になっているのだ、と思うと同時に、国の治安は、人から強制されて守るべきものではない、という、市民社会としての伝統の長いオランダ人らの覚悟のようなものを感じた。オランダは、ことここに及んですらも、決してパニックに陥ることなく、また、モデルを他国に求めるでもなく、ひたすらに、彼らが、歴史を通じて生み育ててきた『近代』の論理で、つまり、個々人の自律と自主的な社会参加を基礎にして、事態に立ち向かおうとしている。西洋人にとって『近代』とは、それほどに大きなものなのだ。

 

事実、2005129日に発効し、翌6年、つまり昨年の21日より施行となった法律で、オランダでは、初等(小学校)教育と中等教育(中高一貫)で、『シチズンシップ教育』が義務付けられることとなった。これは、いわゆる、国語や算数といったような『教科』として行うものではなく、学校生活全体の組織の仕方の中で、また、生活指導や、さまざまの科目授業について横断的に企画されるものが意図されている。

とりわけ、『教育の自由』によって、学校や教員の自由裁量件を最大限に認めているオランダのことなので、この『シチズンシップ教育』も、それぞれの学校が、独自に方法を定めて、自由裁量によって取り組むもの、とされている。しかし、同時に、法律によって規定され義務付けられたものなので、教育監督局が、各校の実施状況について監督することになっている。

 

それでは、各学校に義務つけられたシチズンシップ教育の内容とは、何を指すのか。

 

教育科学文化省の説明によると、以下の3項目が、シチズンシップ教育の内容をなすものでなくてはならないことになっている。

 

1.生徒たちは、多様な共同社会の中で成長するものであるということを考慮し、

2.積極的なシチズンシップと社会統合の促進を目指し、

3.生徒たちが、自らの同年齢層の他の子供たちの異なる背景および文化についての知識を得るとともに、それとの出会いを経験することを目指している

 

それは、それはさらに具体的にいうと、

1.オランダおよびヨーロッパの行政制度と市民の役割についての大要

2.一般に広く認められた(宗教の差を越え、基本的な人間の価値観として、というような意味)価値観および規範を尊重して行動すること

3.オランダという多文化社会の中で重要な役割を果たしている思想体系を学び、異なる意見の人々に対して尊重の態度をとること

 

を学ぶためのもの、と展開されている。

 

だが、前にも言ったとおり、こういう目的のシチズンシップ教育を、どんな方法でどんな教材やテーマによって実際に子供たちを対象として展開するか、については、各学校と教員の自由裁量を尊重する、という考え方だ。学校教育に携わる人々が、創意工夫することへの期待がある。親は、そういう学校の中からふさわしいものを選び、そして、協力する。

 

しかし、学校にしてみれば、『自由』が与えられているとはいうものの、これまであまり意識して経験したわけでもない『シチズンシップ教育』というものを、果たしてどのように学校教育の中で展開していくべきか、について、不明瞭でまごつく場合も多い。まして、教科学習や生活指導、そして学校経営や学級経営に追われている教員には、じっくり教材や方法を研究している暇もない。

 

この法律の実施以来、各地の教育サポート機関、および、さまざまの教材開発会社などが、競って、新しい教材作り・アイデア作りを始め、ネット上でも、教育専門のサイトや教員サポートのサイトなどで、ありとあらゆるアイデア、教材、オランダやヨーロッパの制度についての知識・関連サイトへのリンク、などが広がってきている。わずか1年ほどの間に、この分野での教材やアイデアが、インターネットを通して溢れ始めた。

 こういうあたりは、さすがに、学校の自由裁量権が高く、教材会社の自由市場競争がオープンに行われるオランダだけのことはあると思う。学校は、誰も上からの指示を待つのではなく、まずは、新しい法律の意図を、それなりに独自に教職員チームで話し合い、うまくいかなければ、教育サポート期間やインターネットにアクセスし、とにもかくにも、自分たちの方針を決めてかかる、というすばやさがある。

 

 現実には、『シチズンシップ教育』の一部を構成するような教育は、すでに、オランダの学校でも行われていた。

  たとえば、小学校低学年の生徒たちのための『社会情動発達教育』。これは、車座になって話し合うサークル対話や、共同学習、などの場面を捉え、各人の意見や感じ方をお互いに出し合ったり、子供同士が意見の衝突を経験したときに、どうそれを処理していくか、といったような指導だ。

 また、性教育やケア科、歴史や公民科、時事をめぐる討論会などでも、子供の自己形成を助け、行動の場での社会性を育てる、という広い意味では部分的にシチズンシップ教育は行われてきた、といえる。

 オールタナティブ教育の学校には、以前から、個々の子供の自立心の育成や、共同学習を通じての社会参加に関心が強かった。シチズンシップ教育の基本となる考え方はすでにそこでも見られたはずだ。

 

基本の価値観

 しかし、これまでのシチズンシップ教育では、歴史的に自然発生的にゆっくりとした独自の近代化を経験してきたオランダ人の子供は前提にしていても、異なる文化を背景とした移民たちのこと、特に、近代市民としての自律的な行動や社会参加の態度といったことを、家庭教育や文化的な背景の中であまり明確に経験していない移民たちのことはほとんど意識されてこなかった。

 他方、かといって、オランダ人の子供たちならば、みな、市民教育の理想的な環境を家庭に持っているという前提も、じつはとても危うくなっている。かつて、60年代に、市民意識が著しく高揚したときのオランダと違い、現在のオランダ人たちには、伝統的なキリスト教徒、あるいは、ユダヤ教徒、または、それに並ぶものとしてのヒューマニズムに基づく自由主義者としての倫理観は薄れている。日本と同様で、すべてを金に換算してしまう、消費行動ばかりが目立つ家庭、育児を学校と保育所に任せ、思慮なく高い玩具やゲーム機器を与える親が増えている。

 実際には、オランダ人も移民も、限りなくアイデンティティの個別化や多様化を経験しているというのに、何かことが起こると『文化』の違いを言い訳に、無自覚に互いに疎外しあい、無理解に差別しあう、という環境が、この数年目立ってきていた。

 

 オランダの教育科学文化省は、『シチズンシップ教育』の義務化と促進に当たり、どんな文化的背景の違いにもかかわらず、すべての人に共通の、民主的な法治社会に基本の価値観がある、といっている。そして、このいくつかの価値観について、小学生・中学生に指導していくための、まさに噛んで含んだような説明を加えている。

 これを読みながら、私は、率直に言って、目が覚めるような気がした。人間存在の価値を、よくぞここまで、子供にもわかるように噛み砕いてくれたものだ、と感心する。

 

教育科学文化省の説明を、以下に、そのまま翻訳しておく。

 

(引用はじめ)

     基本的な価値観とは何か?

学校は、自分の生徒たちに対して、どんな価値観を伝達するかについて自身で決定する自由を持っているが、同時に、私たちが共通に持っている価値意識の伝達に貢献しなくてはならない。これは、最終的に、人々やもろもろの集団を結合させる基本となり、それによって、お互いに相違を持ちながら、調和を持って共に生きることができるようになるためのものである。

 

表現の自由とは、自分が考えることを述べたり書いたりしてもよい、言い換えれば他の人の意見に反対の意見を言ってよいということを意味している。すべての人は、したがって自分の信念を説き広めること、言い換えれば、自分の意見を他の人に対して提示することが許されている。ただし、その際、法律を遵守していなくてはならない。

 

平等とは、人々が同等の価値を持つものであることを意味している。その際、人々がどんな考え方をするかとか何を信じているかということは一切問題にされない。人は、その人のものの考え方や習慣がその人自身の価値を決めるのに有効なものであると考える必要はない。ただし、他の考え方や習慣を持つ人たちを自分自身や自分が属している集団よりも価値が低いとしてはならない

 

他の人への理解とは、人々あるいはさまざまの集団がなぜ一定のものの考え方や習慣を持っているのかについて理解しようを努めること、すなわち、その背景はなんなのだろう、とか、なぜそれは他の人にとって重要なのだろうと考えること、とを意味している。

 

寛容とは、他の人の意見や行動を、たとえそれが自分にはまったく同意できないものであっても、受け入れること、を意味している。また、寛容は、誰に対しても何らかの意見や何らかの行動をもつ猶予を与えることを意味している。もちろん、すべての人は、この点に関し、法律を遵守しなければならない。

 

自律とは、誰もが、自分はどういう人になりたいのか、どんな生涯を送りたいのかについて自分自身で決めることができるということを意味している。たとえば、誰でも、自分にとってどのような考え方やどのような信念が重要であるかを、自分自身で決める自由を持っているということだ。この点に関し、法律が遵守されなければならない。

 

不寛容の拒絶。不寛容とは寛容の反対語である。それは、他の人々やさまざまの集団について、自分が同意できないことについて、その人たちがそう考えたり行動したりしてはならない、とすること、また、誰もが一人ひとり何らかの意見を持ったり何らかの行動をする場を与えられる必要はない、とみなすことを意味している。

 

差別の拒絶。差別は他の人々や他の集団を蔑視すること、または、他の考え方や習慣を持つ人々に対してはそんなに多くの場を設ける必要はない、と考えること、あるいは、この考え方や習慣を場合によっては禁止されるべきであると考えることを意味している。」

(引用終わり)

 

愛国心ではシチズンシップは育たない

 

 経済市場のグローバル化による経済格差の拡大、そして、消費行動に著しく傾いた人々の暮らしは、日本でも同様に見受けられる。家計負担を軽減するために、共稼ぎを余儀なくさせられる両親は日本にも多い。オランダのように、ワークシェアリングの慣行がなく、残業や休日出勤もまだ随所に見られる日本で、家庭の教育の力が急速に失われていることはとみに知られていることだ。

 ましてや、オランダのように、子供の個別の能力・適性・テンポに応じて、教材や教育法を分化して、個別のニーズに合わせた教育を行う、という意識は日本の学校ではまだほとんど省みられていない。有識者を集めた教育再生会議ですら、そういう方向での議論は主流ではなさそうだ。

 そんな中で、日本人一般の道徳意識・倫理観・民主的な社会での市民形成は、いったいどういう方向を模索しているのだろう。昨年の教育基本法改正でも見られたように、また、今年の教育三法の改正をめぐる強行採決を見ても、現在、いじめや不登校問題に無策であると見える日本の保守政治が進めようとしているのは、あいも変わらず「愛国心」による道徳心の回復、という単純極まりない楽観論だ。

 

 だが、「愛国心」を訴えることで、日本の次世代の市民形成が安泰だ、とでも思う向きには、上に見てきたオランダのシチズンシップ教育の方向について、もう一度よく検討してほしい。

 オランダで今真剣に議論されているのは、異なる文化的な背景を持った、しかも、近代化の過程を西洋人とともに共有していない、さまざまの社会から来ている子供たちに、「どうやって自分の頭で考え、善悪を自分自身で判断できるようにするか」(良心の自由の育成)「そうやって自分探しをし<主体>を身につけた子供たちが、なおかつ、お互いにお互いを受け入れながら、共同して社会参加をするにはどうしたらよいか」(社会参加意欲の育成)ということなのだ。

 元来、民主社会とは、そのままでは、決して相容れることのない個々ばらばらの価値観を持った人々が、それにもかかわらず、法律の約束事に従って、互いの存在の権利を認め合って暮らす、ということだ。シチズンシップに期待されているのは、何か文化的な背景を理由に、それほどの困難もなく<同調>できるもの同士が、烏合の衆のように集まる、というのとは別の質のものだ。そうではなく、文化も宗教も価値観も、さらには、近代化の程度もまるっきり異なる、そのままではとても<同調できない>もの同士が、どうやって、互いを尊重して協力するか、に取り組み、<異なる>ものが積極的に<協力して>共同体を作り上げるための約束事を理解している、ということなのだ。

 日本の教育で、<愛国心>を唱えていれば何とかなる、学校の儀式で君が代を歌い日本国旗を上げていれば、市民は育つ、と考えている保守政治家らの救いようもない楽観が怖い。

 

 東京都民であること、沖縄県民であること、離島の住人であることと、日本人であることには、元来矛盾はあるべきではない。日本人に限らず、普通の人ならば、自分が生まれた郷土になにがしかの愛着を持つのは、人間として当たり前の感情だ。

 

 経済市場のグローバル化に伴って、情報のグローバル化が進んでいる。異文化の衝突、西洋的なモダニズムと先進国でのポストモダニズム、そして、モダニズムを経験していない世界の多くの地域の人々の伝統とが、交流・交錯する時代になっている。しかも、人々は移動し、同じ出身国であっても、移動先の文化への適応の仕方、同調の仕方は一人ひとり異なる。世界のありとあらゆる地域で、人々は、個々ばらばらに、自分という一個の人間を形成し、アイデンティティを形成して、互いに同じ土俵を踏みながらも、限りなく多様に生き始めている。しかも、私たちが住む地球という星の存続すらが危うくなっている時代だ。

 そんな中で、必要なのは、世界の、限りなく多くの人々が、自分の文化や価値観のみに優越感を抱くというような「独善」を断固廃して、自分が自分のアイデンティティを大切に思うのと同様に、他者のアイデンティティをも認めて、互いに場を認め合って生きる知恵なのだ。自己肯定・自己主張と同様に、自分の意見とは相容れない他者を受容し、他に耳を傾け、どこかで接点を見出し、自分の考えや立場を客観視できる人々だ。

 日本の学校に、「愛国心」などはいらない。必要なのは、自分が生まれた郷土を愛し、国を愛するように、世界を愛し、世界の人々と、平等に渡り合っていくに十分なだけの、思考力とコミュニケーションの力を持った日本人を育てる努力だ。

    

 日本からの研究者とともに、オランダの学校をまたいくつか訪問した。これまでにも、かなりの数のいろいろな種類の学校を見てきたが、訪問するたびに心に残る言葉と出会い、新しい発見をする。

イエナプラン小学校

まず小学校の校長先生のこんな言葉。「教育においては、まず何よりも、子供の発達を信頼することが大切だ。子どもを規制することばかりを考えていたら、子どもたちは、単なる受身の消費者に育ってしまう」

これは、イエナプラン教育の小学校の先生の言葉だ。

 イエナプラン教育については、これまでにもいろいろなところで述べてきたので、繰り返す必要もない、と思う。彼らの教育方法は、決して<放任>ではない。また、子供の発達を信頼するからといって、教員たちが受身に待っているだけの教育でもない。子供がやがて成長し彼らが作り上げる社会がどういうものであるべきかを方向として示し、子供たちの発達が、その社会に向かっていくよう、学校での教育内容や時間割や学級編制などの学級経営を企画し、その中で、子どもたちとの対話や子供同士の相互作用に、彼らの発達を促す適切な刺激が与えられるように工夫している。

イエナプラン教育の指導者は、現場で実際に子供たちとかかわる教員たちが、子どもたちに与えるべき刺激に一定の指針を与えるため、彼らなりの、個人・共同社会・学校の役割についての原則をまとめた(『オランダイエナプラン二〇の原則』)。また、『イエナプラン:21世紀に向かうイエナプラン教育』という教員向けの指導書の中で、個人と社会の関係、家族のあり方、人々の繁栄と福祉、自然や技術の環境、時間についての考え方、空間についての考え方、合理主義や効率化の進行について、規範や価値観の多様化について、民主化・分権化と市場化について、といった分野で、現代社会が、過去に比べてどのような発展を遂げ(1)、それに伴い人間社会にはどんな利点や問題が生まれてきているのか(2)、また、彼らが理想とする共同社会に向けて、イエナプラン教育は、教育の場で、子どもたちにどんな刺激を与え、どんなことを話し合っていこうとしているのか(3)、ということを大変詳しく一覧表にまとめている。

 この表は、これから学校の教員になろうとしている教職課程の学生たち、すでに学校で教員として働いている人たち、などが、養成中や現職研修などで議題にして話し合い、変容しつつある社会の中で、彼ら自身が考えながら子どもの教育に関わるための指針にしている。

 学校教育は、社会の変化と切り離すことができない。知識や技能の中身も時代とともに変わる。知識や技能が、社会の変化と照らして、何のためであるのか、人間にとってどういう意味を持つのか、といった議論は教育を考える際にやはり避けることができないことであるように思う。そうした議論を避けて単に知識や技能を伝達するだけでは、子どもたちは、自立して考えることのない、受身の、まさに『消費者』になるだけだろう。

 その点について、イエナプラン教育の関係者は、彼らなりの主義や理念を明確にして教育にあたろうとしている一部の人々だ。オランダの教育の全体からすると、ごく一部の学校(全国に200校あまり)で行なわれているものに過ぎない。だが、少数であっても、そういう教育が一部で行なわれることで、他への刺激になっている、と思う。どんな教育を選択するかは、親(生徒)に任されている。

 

モンテッソーリ中学校 

設立されて50年以上になるというハーグ市内のモンテッソーリの中学校(中高一貫)を訪れた。校長先生は、この学校のパンフレットに書かれたいくつかのスローガンを見せてくれた。

『あなた自身の仕事(学習)のマスターになることを学ぶ場』

『すべての人は、生まれつきユニーク。そして、そうあり続けるよう守られるべきだ』

『単に知識を伝達するだけではなく、一人ひとりの人が私たち(社会)の前進に積極的に関わることができるようにするための場』

『自由がなければ規律を守ることは決してできない、、、そして、規律がなければ自由を満喫することはできない』

などといった言葉が並ぶ。

 この学校では、クラス単位で授業を受けることがほとんどない。生徒たちが、それぞれの進学コースの必修科目を時間ごとに専門教師のところで受ける、というやり方だ。学習の多くは、生徒自身による自立学習によっている。物理と数学と技術、生物と科学といった隣接科目の教員室は、同じ階に生徒の学習室を取り巻く形で設置されている。生徒らは、科目横断的な学習をしながら、教員たちに指導を求める。

 高校生が、中学生の教室に来て、数学を教えている光景にも出くわした。生徒自身が説明した方が、教員の説明を聞くよりもわかりやすいこともある、という。もちろん、授業中は、教員が教室にいて必要に応じて助言する。生徒はいつでも教員に質問できる。

 なんと、この学校では始業や終業を伝えるベルも止めてしまったのだとか。「ベルに強制されずとも、生徒は、壁の時計や腕時計で始業の時間を知っている。」というのが校長先生の説明だ。

 この学校は、市内の他の中学校に比べて、しばらく学力レベルが落ちていた。それでも、わざわざこの学校が良いといってやってくる親や生徒がいるという。生徒の自主性を尊重する教育を好む人々が一定程度いる、ということだ。

また、とりわけ、紙に印刷された文字を読み取ることに時間がかかる「ディスレクシア(読解困難症)」の生徒は、読みを通じてではなく、教員との対話によって学ぶチャンスを求めて、この学校を選ぶという。一般に、モンテッソーリの学校には、ディスレクシアの生徒の比率が、全国平均に比べかなり高い。

しかし、すべての子供にとってこれが最善、というような教育はない。

校長先生はいう。

「12歳から18歳という年令は、子どもから大人になる時期です。思春期や反抗期の難しい年令です。でも、子供たちが、自分の行動に責任を持ち、自立的・自覚的に選択することを学んでおかなくてはならない年令でもあります。けれども自由だからといって授業に遅れてきたりサボって校外に出て行く子どもには、注意をしても改善されなければ、もっと規律のある学校に行くことを薦めます。」 

教育理念について、自らの主義を容易には譲ろうとしない。だが、その一方で、すべての子供に一様に最善だと適用できる方法などはない、という意識もあるように思う。独善とは違う。

一般(キリスト教系)中学校

 IT教育のモデル校になっている中学校(中高一貫)も訪れた。オルタナティブ系ではないが、子どもたちの自立学習を奨励し、そのための器材や設備、特に先端のIT教育機器やソフトウェアが実に充実している。30歳台と思われる若い物理教師が案内してくれた。物理教室の廊下の壁には、惑星やオーロラの写真などが飾られている。この先生は、この写真の前でわざわざ足を止め、「自然は単なる科学の対象ではない、自然現象は、美しいものだ、ということも生徒たちに教えたいのです」という。

高校1年生を対象とした『ニュートンの第2法則(???)』についての授業を見せてくれた。先生は「この授業の目的は、簡単なひとつの法則を学ぶことによって複雑な問題を生徒自身で解くことができることを体験させるためのものです」と説明した。授業が始まると「教科書の00ページの課題を、この法則を使って解きなさい」といって、生徒らの自立学習を促す。問題を解くためにノートにまず図を描くように指示する。生徒の間を回りながら、正しく図がかけているかを点検している。生徒の質問に対しヒントを与える。どの子もよく理解できていないらしい点について、黒板に戻って皆に説明する。(皆、といっても授業を受けているのは理科系の8人だけだ。)

50分の授業は、生徒たちが図を描きあげるところで終わった。「答えは次の授業までに出してきなさい」と。実に無駄な言葉のない、生徒自身に課題に取り組ませる授業だった。

 IT教育に熱心なこの学校は、国際交流にも熱心であるらしい。チャリティ事業を組織して、ケニアの農村に小学校を建てるプログラムに参加したり、ロボット制作の国際コンペに生徒を参加させたりしている。隣国ドイツのある学校と姉妹校になり、お互いに年に1回ずつ訪れ討論会を開くという。今年は、理科系の生徒たちがエネルギー問題について議論するのだそうだ。また、校内では、理科系の生徒と文科系の生徒とが、それぞれの立場から、エネルギー問題について話し合う会を開く、という。

 この学校は、ハーグ市内でも、人口的に先住オランダ人と移民とが混在した地域にある。校長を始めとする経営者の手腕だろう、ITモデル校になることで、国の補助金や企業の寄付を上手に受けており、他校に比べて特別に高い授業料を取っているわけでもない(年間200€程度、低所得家庭は減額)。もともとカトリックの学校とプロテスタントの学校とが合併したキリスト教系の学校だが、宗教教育の時間は、生徒の選択によって、キリスト教倫理と一般倫理とに分けている。市内の他の同等の学校に比べてもトルコ人、モロッコ人、スリナム人など、外国出身の子どもたちをたくさん受け容れ、潤沢な環境の中で教育している。

一般私立小学校

 こんなに素晴らしい学校ばかりか、というと、「教育の自由」のあるオランダには、とてつもなく古典的で保守的な教育をしている学校が今もあることも事実だ。「教育の自由」は、学校と教員の自由裁量権を最大限に認めている。だから、一方で、確かに、オルタナティブ教育に象徴されるような、新しい教育方法の導入やその普及に、他の国ではあまり見られないほどの素晴らしい土壌を与え、個別教育の発展に場を与えたが、反面、守旧的な古典的な授業方法を維持する自由も学校に認め、そうした学校が今日まで頑固に存在しつづける原因にもなった。

移民人口が少なく、親の教育程度が一様に高い住宅地にあるこの私立小学校は、私自身、これまでほとんど見たことがないくらい、例外的に保守的な学校だった。

授業は、すべて、教員が黒板の前に立って一斉授業方式で教えている。子供の発達の相違に応じて与える副教材の数も異常に少ない。「個別教育は効率が悪い。学力のためには、一斉方式が効率的なのだ。」といってはばからない。

 副教材が余りに少ないので「寄付金は取っているのか」と聞くと、「年に400ユーロぐらいです。低額所得者への減額措置はもちろんあります。ですが、うちの学校にくる子どもたちはほとんど高額所得者ばかりなので、皆問題なく支払ってくれます」という。

それにしても副教材をふんだんに教室に備えているオルタナティブ・スクールでも、400ユーロも取っている学校は滅多にない。授業料を取らない公立校でさえ、この学校よりもはるかに教材が充実している学校はいくらでもある、と思った。

「うちの学校の子供たちは、皆、家庭的背景がよい子供たちばかりです。個別指導をしなくても、ついてくることのできる子たちばかりなのです。進学先もほとんどみな大学・高専進学コースの中学です」という。校長先生はニコニコと優しそうだが、実に受身で、変革への意欲はほとんど感じられない。

 よく聞いてみると、この学校は、ハーグ市内でも、特に、先住オランダ人人口が集中した地区にあり、移民の集中した居住区から、最近、とみに、白人系の家庭の子供が押し寄せてきている、という。その結果、この地域にある小学校は、どこも満杯状態で、子どもが生まれるとすぐにwaiting listに登録しなければならなくなっている、という。

 オランダの「教育の自由」の問題がもっとも先鋭して現れているところだ。

教育の自由は、教育についての宗派・非宗派的理念、教育方法の多様性を保障して、親と子供が、いろいろな多様な選択肢の中から選べる環境を保障してきた。しかし、宗教や文化的背景が異なり、ヨーロッパ言語を母語としない移民が増えることによって、この基盤や原則が崩れ始めている。 

「教育の自由」は、移民にイスラム校やヒンズー校を設置する権利も与えてきた。彼らが、自分たちの文化や言語を維持しながら、オランダ語とオランダ文化を学ぶためだ。

だが、移民の教育は、言うほどに簡単なものではなかった。先住オランダ人と移民の間のオランダ語の能力には超え難い差がある。ましてや、移民の子どもたちは、生まれつきオランダにいるわけではなく、いろいろな年令でいきなりオランダの学校に入ってくることも多い。家庭環境が整っておらずオランダ語の環境にない難民や失業者の子どもも多い。文部科学省はオランダ人の子どもの約2倍の教育費を与え、厚生省は、就学前の子供や親に対してオランダ語強化のための教室を作るなどの努力をしてきている。それでも両者の差はなかなか縮まらない。移民の子どもが過半数を占める地域から、先住オランダ人が過半数を占める地域の学校を好んで選んでくるオランダ人の親がいるのは、ある意味では当然である、ともいえる。

「教育の自由」の制度では、学校評価の質基準の最も重要な要因は、親(生徒)の学校選択である。親の自主的な選択によって希望者が集中する学校は、問題のない学校と受け取られやすい。教育監査局が特に注意しているのは、生徒数が減少傾向にある学校だ。

だが、上の学校のような場合、希望者の集中は、学校教育の質を反映している、とは必ずしもいえない。ブラックスクール(移民の子どもが90%以上の学校)の地域から押し出され、他に選択肢がなくて(白人系の)先住オランダ人の希望者が集中しているにすぎないからだ。それが質の低下を見えなくしている。

もう一つの要因がある。先住オランダ人の学力を平均すれば、どうしても移民の子供たちの学力よりも高くなる。また、自宅のある地域からわざわざ遠くの学校にまでやる家庭は、社会階層の高い家庭の子どもである場合がほとんどだ。だから、学校での教育効果をを問わなくても、家庭環境だけで、一般に、学力水準は高くなる。その結果、学校でどんな授業が行なわれていようとも、その質が問われることが少ない。

教育監査局は、いろいろな監査項目の中に、「個別の子どもの配慮をしているか」「子どもごとに分化された教授方法を採用しているか」といった項目を示し、「良い」「普通」「悪い」の評価を公開している。先住オランダ人の子どもがwaiting listに名前を連ねるような大都市の一部の地域では、今、こうした評価がたとえ『悪い』と評価されても、生徒数に事欠くことはなく、安穏としていられる学校が徐々に増えつつあるようだ。

今回の学校訪問では、「教育の自由」が持つ利点と問題点を非常にはっきりと見ることができたように思う。『教育の自由』によって学校や教員の自由裁量が保護されているだけに、工夫する意欲のある学校では非常によい独創性の高い教育が生まれる可能性がある。他方、最後に挙げた学校のように、移民問題が深刻化している都市部では、逆に、一部の地域で不自然な生徒の集中を生み、学校の怠慢が起きる結果になっている。

移民人口の流入は、確かに、それまでの比較的同質的だった社会にはなかった問題を生み、様々の分野で、オランダ人に挑戦的な課題を提示しつつある。


何ものかが優れているかどうかを判断するには、それに何が期待されているか、ということに照らしてなされるのが普通だと思う。
そうであれば、一国の教育について、優れているとかいないとかの判断をするとすれば、まず、教育の目的は何か、ということが明らかにされなくてはならないだろう。公教育の責任者は、その「目的」を明らかにすることによって、行政官としての責任の下にある国の教育のあり方を自己診断的に評価する必要があろう。国内でのいろいろな評価も、国際的に共通の基準を設けて行われる学力についての評価も、結局のところ、自国の教育についての評価を、どういう価値基準から行なうかが明示されなければ、議論の意味はないし、そこから何かを学ぶことも出来ない。

教育の成果について共通の基準を設けて国際評価する試みはいろいろに行なわれている。しかし、多くの場合、それは、学力評価に終わり、学校教育全体が、その国の社会の期待に沿ってどれほど成功裡に果たされているか、という評価はほとんどなされない。

昨年末に出されたOECDのPISAでの結果は、日本の教育関係者をあわてさせた。また、その一方でこの調査におけるフィンランドの優れた結果が注目され、このところ、関係者の間にフィンランド詣りが流行り始めている。「良いもの」を生んでいる国の事情を知ることは大切だし、日本を外から見ることによって学ぶことも多いから、外国の視察はそれ自体には大変大きな意味があると思う。しかし、視察にしても、「見るための基準」として、日本では、人々は公教育に何を期待しているのか、または、制度上、日本の公教育は、その目的として何を公的に掲げているのか、ということについて、もう少し論議が進められていいのではないか、という気がする。

6月に出されたCPB*の報告「国際的視点から見たオランダの教育と科学研究(Nederlands onderwijs en onderzoek in internationaal perspectief)」は、このことについて私に気づかせてくれた興味深い報告書だった。

*CPBについては、身辺雑記の最近のエッセイを参照して欲しい。

この報告は、最近のオランダ国内における教育・科学研究のレベルに対する悲観的な議論を背景として、政策関係者に対して、「本当にオランダの教育・科学研究のシステムは他国に比べて劣っているのか」を考えるために行われた研究の成果、として出されたものである。この研究では、オランダの教育や科学研究のレベルを検討するために、比較対象として、テクノロジー開発のフロントランナーであるアメリカ合衆国、しばしばモデル国とされるスカンジナビア諸国(スウェーデン、デンマーク、フィンランド)、さらに、隣国のドイツ、フランス、イギリス、ベルギーが選択されている。

研究は、教育部門と科学研究部門に分けられておこなわれた。

その結果、報告書は結論として「オランダの教育・科学研究は他の富裕諸国と比べ、一貫して特に優れているわけでも特に劣っているものでもない」というものだった。

この研究に当たって、どういう分析がなされたのか、どういうデータが用いられたのか、は興味深い。幸い、この報告書は、英語でも公表されているので、専門的に特に関心をもたれる方にはそちらを見ていただくとして、ここでは、私自身が強い関心を持っている「教育面」での分析の報告、とそれについての私の感想にとどめることにしたい。(http://www.cpb.nl/eng/pub/document/88/)

オランダの教育の現状についての分析には、国内の種々のデータのほか、国際比較調査として、
OECD Education at a Glance2004
TIMMS Trends in Mathematics and Science Study 1995, 1999
PIRLS Progress in International Reading Literacy Study 2001
PISA Program for International Student Assessment 2000, 2003
IALS International Aduslt Literacy Survey 1996
などがデータとして使われている。

さて、教育についての調査結果は次の点にまとめられている。CPBの報告のサマリーをそのまま翻訳しておく。(翻訳文責はリヒテルズ)

(要旨)
オランダの教育制度は、他の参照国と比較して、いくつかの良い成果を生んでいるし、比較的小さな資金でそれを行なっている。オランダの生徒たちは、国際的な比較可能なテストで高得点を取り、学校を出た後頻繁に職に就いている。国家、生徒、および親による教育支出は比較的低い。これに対して、オランダの生徒たちは、比較的若年で学校をあとにし、中途退学もオランダでは比較的頻繁である。そのため、国民の学歴は、他の富裕国に比べて低い。また、高等教育に占める人口の割合の増加の度合いも他国に比べて遅れている。

オランダの生徒たちは、国際テストで好成績を修めている
 国際的なテストにおいてオランダの生徒たちは、一貫してよいスコアを示している。スェーデンだけが、ほぼ同じような成果を示す。フィンランドに関しては、十分な比較可能なデータがなかった。デンマークとアメリカ合衆国は際立って成績が低い。成人の識字レベルについてみると、スカンジナビア諸国とオランダは高いスコアを示す。合衆国はこの点で遅れている。

オランダの教育制度は共同社会の中にしっかりと組み込まれている
 社会環境要因においてオランダは、ほぼすべての分野においてよい結果を示している。スェーデンは選択された指標に関する限り、オランダと共通の性格を示す。デンマークは、それよりもやや否定的で、フィンランドは、オランダとの比較ではほぼすべての指標において、劣っている。フィンランドでは、子供たちが学校をあまり楽しいものとは思っておらず、学校の課題のプレッシャーを強く受けている。こうした暗い意見は10代の子供たちの出産、自殺、未成年者の犯罪などの指標からも結論される。

オランダの生徒はにもかかわらず若い年令で教育を後にする
 オランダは子供たちを比較的短期に教育に就かせている。15-24歳の多くのものがすでに教育を受けていない。低学歴者の比率はオランダでは比較的大きく、高学歴者の比率は比較的小さい。高学歴者の比率は、他の比較対象国(ドイツを除く)で平均してオランダの増加率の2倍以上に当たる21%から30%に増加したのに対し、オランダでは、20%から24%に増加したに過ぎない。最も若い年令グループではその差はさらにはっきりする。比較対象の8カ国における高学歴者の比率の平均的な増加は、25%から36%であるのに対し、オランダでは、22%から28%への増加である。

オランダは教育に対して比較的小さな支出をしている
 公的および私的教育支出のGDPあたりの比率は、オランダでは、比率としては低い方である。アメリカ合衆国は学生一人当たりオランダに比べ60%多く支出している。デンマークでは、オランダに比べ、その差はおよそ3分の一以上に及ぶ。スェーデンは、オランダとの比は13%増である。1995年から2001年の間のこれらの国での教育費の増大率はオランダよりも大きい。フィンランドの教育支出と増加率はオランダのレベルとほぼ同じである。このほか、オランダは、教員をサポートし、教員の仕事を代替する人員への支出が比較的小さい。スェーデンとフィンランドは人件費以外の教育支出が比較的大きい。




さて、この調査結果を見る限り、「オランダの若い人たちは、学校では楽しく勉強し、学力などの成果もかなり高い。あまり高学歴ではないが、学校を出たら、よく就職もしている。しかもこういうほどほどの教育を比較的安い費用で賄っている」ということになりそうだ。

ここで、ひとつ注意しておきたいのは、生涯教育や成人教育に対する浸透度の高さだ。オランダは、ご存知のように、ワークシェアリンクの国で、一週間5日丸々働いている人は他国に比べて大変少ない。そんな中で、30代40代になってから研修を受けたり、大学にいったりする例も珍しくない。上のCPBの結果に合わせて、私のいささか「乱暴な」印象からいえば、オランダの子供たちは、まずは、独り立ちして何か収入の道を見つけたい、と思うケースが、日本などに比べるとはるかに高いように思う。また、親は、18歳の成人になったら、子供自身がある程度自活することを当然だと期待しているし、たとえそれが大学卒業まで延長されるとしても、子供の生活費の何でもかんでもを面倒みようという気はほとんど持っていない。学生でも、アルバイトなどではなく、本気で小さな企業を立ち上げて会社経営をしているようなことも少なくない。

さて、ここで、ふと思い出したのが、オランダの文部科学省が、その公式サイトの上で明らかにしている「教育の目的」だ。このように書かれている。

教育は人々が社会で機能できるための基礎を作るものである。知識・技量・創造性は、人々が互いに共同生活を営み、また、彼ら自身の未来を準備するための不可欠の要素である。自分には何ができるかを発見し、さらに、その自分の能力を開発し利用すること、教育はそのための機会を人々に与えるものである。(以下続く)」


なるほど、このように見てくると、オランダの教育は、その掲げている「目標」に対して、まずまずの効果を挙げているではないか、ということになる。

去年の暮れ、PISAの結果に慌てた日本。しかし、日本の教育は、公的に何を目指したものなのだろう。このあわてぶりを見ると、やはり、日本の教育は「学力向上」を最大の目的としているということなのか。
しかし、今教育界で問題になっているのは、「不登校や引きこもり」の子供たちや大人の問題だ。また、大学生になっても将来何になりたいという希望もなければ、将来の展望を語れる学生もいない、と嘆く年配の人たちの声も聞く。PISAの結果が向上したところで、「不登校」や「引きこもり」の問題は解決しない。学力ばかりが優秀でも、どんな大人になったらいいのかわからない、社会の中での役割や自分の力を知らない成人ばかりが増えても困る。

オランダの教育は、少なくとも、子供たちを社会に出すための最低限の準備だけはしているように見える。

ところで、このCPBの報告書の冒頭にも出てくるが、最近「オランダの教育や科学研究は大丈夫か」といった不安の声を国内でよく聞くようになった。2002年まで続いた「紫政権」(労働党を中心にした保革連合)の時代には、初等教育や中等教育への改革の関心が強かった。しかし、2001年ごろからの急速な不況風の中、キリスト教民主連盟を中心とする中道保守政権が生まれてからは、教育政策や大学などの科学機関に対する関心が明らかに変わってきた。グローバリズムの進展する中、世界市場での競争力を持つために、学力を向上させ、科学技術のレベルを上げねばならない、という議論が幅を利かせるようになってきた。それが、教育・科学分野全体の質の維持の中で行われてきたのであればともかく、そのために、教育支出の力点が初等・中等教育という、より広い階層の子供たちに影響力を持つ分野から、産業開発の戦力となる高等教育や技術開発部門への資金投資に転換してきている。そんな中で、まるで、こういうグローバリズム礼賛派の主張を支えるように「オランダの教育・科学研究のレベルは落ちているのではないか」という議論が出されてきた面は否めない。

CPBは、これに対して、彼らなりのひとつの答えを出したのだ、ともいえる。
誰のための、何のための教育か、ということについて、CPBは、オランダでのこれまでの社会の議論に敏感で、「独立」の立場からバランスの取れた研究分析を行った、といえる。

こういう独立の研究機関を持っている、したたかなオランダ社会が羨ましい。

 昨年『オランダの教育』を上梓したあと、日本国内数箇所で講演や勉強会をしオランダの教育制度の説明をさせてもらった。ある時、話の後で、某大学の某教授にこう質問された。

「オランダの大学には一流とか二流とかランク付けはないのですか」

私:「ほとんどありません。毎年何らかの評価があって学部単位でこの大学が優れている、というような調査はありますが、一貫してこの大学が一流というようなものはありません。」

「しかし、そうすると、エリートというのはどうやって養成されるんですか」

その後、この問いに私はどういう手順でどう説明したかを明確に覚えていない。ただ、その時の話で説明したばかりの、複線型の中等教育制度というのは、そもそも、中等教育の段階で、大学進学準備をしている子供たちに対して実質的なエリート教育をやるのだ、ということを繰り返し説明した、ということは記憶している。

日米に共通の6・3・3制が当たり前であると思い、さらには日本の学歴社会に慣れ親しんでしまうと、、ヨーロッパでは一般的な複線型の学校体系の中等教育の意味、特に、エリート教育の重要さ、にほとんど気がつかないのではないか、と思う。

民主社会の健全な市民意識を維持するために進んで議論をし他の社会の成員に対する影響力を持つリーダーシップを取る立場に就くエリートというものは、子供らを叱咤激励して学力だけに基準を置いたペーパーテストで追い立て寡頭競争で振り分けてしまえば育つというものではない。

オランダには大学進学準備コースとして、VWOという6年間の中等教育がある。いずれ大学でアカデミックな学問をし、専門家として世の中に出て行く人材の基礎教育をしているのは、このVWOだ。その到達レベルは、日本で言うなら、一流大学の教養部修了レベルをはるかに凌いでいる、といっていいと思う。その中でも、特にギムナジウムといわれ、大学進学には特に義務付けられていないラテン語とギリシャ語をわざわざやるVWOがある。これが、もっと狭い意味での伝統的な「エリート教育」に当たる教養・技能・知識教育をやっている。

さて、ギムナジウムでの読書量は並々ならぬものだ。このことは、以前、読書課題について取り上げたことがあるのでここでは触れないことにする。(高校2年生の読書課題 (第42号最終号、教育閑話、2004.9))とにかく、ギムナジウムの生徒たちは、2ヶ月ごとにある1週間ずつの学校休暇や学年末の長い休み、また、旅行に行く時にでも本を抱えていないわけには行かないほど、始終本を呼んでいる。読書の習慣がついているから、普段から、読んでいる本がある状態が当たり前になっている。

 

つい最近も2週間フランスで休暇を過ごしたが、17歳の娘は、学校の課題本と自分の好みとで、3冊の本を読破してきた。ひとつは、オランダ初の手紙文学といわれる18世紀に書かれた「サラ・ブルヘルハルト嬢の物語り」(Historie van Mejuffrouw Sara Burgerhart, by Betje Wolff & Aagje Deken)、もうひとつは、数年前に話題になった「白い心の黒人」(De Zwarte met het Wittehart, by Arthur Japin)、そして、3冊目は、シェークスピアの戯曲「ロミオとジュリエット」だった。はじめの本が課題図書で、後の2冊は、好きで選んだ本だ。

「サラ・ブルヘルハルト、、、」は、主人公の若い女性と彼女を取り巻く男性たち、これに関わる人々との交流を手紙を通して描写したものだが、登場人物の描写や、その時代の人々の行動様式や社会意識・倫理観を反映した男女関係が描かれていて面白そうだった。「白い心の黒人」は、アフリカの王族出身のいとこ同士の二人の若者が、奴隷貿易の時代にオランダに預けられ、仲良しだった二人の若者が、自分の運命との戦いの中で、それぞれ、オランダへの積極的な同化と自国文化に対するアイデンティティの強化というまったく相反する道を辿ったという史実に基いて書かれた物、3冊目の解説は必要ないだろう。

こういう本をどんどん読まされている娘を見ながら、本を読むというのは、他の時代、他の文化的背景にあるの他の個人による経験や考えを追体験し、それによって、ものの見方を深めるためになのだな、とぼんやり考えていた。

こんな風にして、文学に自立的に関わっていく子供を育てれば、彼らに、お仕着せの歴史を暗記させるような教育など、子供の方が馬鹿馬鹿しくてやってられない、と笑い種にしてしまうだろう。オランダでは、それは、教師にとっても、学校にとっても文科省の教育行政官にとっても自明だ。だから覚える歴史教育ではなく、考える歴史教育ができるのだ、と思う。

こうやって毎日毎日休む間もなくオランダ語や外国語の本を読まされているかと思うと、今度は、生物の先生が、「魚に眼鏡は有効か、有効か無効かを結論として出し、それを理論的に証明しなさい」という禅問答のような課題を出してくる。娘らは、悲鳴を上げながら、友達と相談してインターネットから情報を集め、親兄弟に相談したりして課題の答えを出そうと必死になっている。何せ、こういう課題で何点とるかは、共通試験と同様、卒業資格の獲得いかんに影響するのだから。

こうやって書いてくると、何か、娘の学校の自慢をしているように思われるかもしれない。が、本当は、それほどスムーズに行っているわけでは決してないのだ。

中学2年から3年に移る当たり、娘は「私たちは、ザルの網の目にかろうじて片手でつかまってぶら下がっているような状態なのよ」と自虐的に笑ったものだ。「個別指導、なんていっているけど、うちの先生たちときたら、『ああ、君達はギムナジウムの生徒なんだから、自分で考えてやっていけるはずだね』って言ってほったらかしなのよ。授業なんてろくにやらないで、私たちはひたすら自立学習なんだから、、、。試験や課題を出しては、ザルを振って、さあ、今年は何人落ちるかな、と思っているだけよ」と、忌々しそうだ。

私たち両親も、試験前になると何度か助け舟を出した。が、一概にいって、こんな風に『知的に』鍛えられて育つ子供を見守る小気味よさの方を何度も体験させられた。

翻って自分の学生時代のことを振り返ってみる。そこそこの進学校に行き、地元の国立大学に入学した。受験勉強は嫌ほどさせられたが、本当に知的に鍛えられた、とか、知的コミュニケーションの技能を教えてもらった、という記憶がない。それは、大学に入ってからもそうだった。その、「鍛えられていない」ことに対する茫漠とした不安が、自分自身の大学生・大学院生としての立場に非常におぼつかなさを付き纏わせていた。そうやって、やがて、研究者と科学者とか言われる立場になることについて、知的なトレーニングを受けていない自分と外目に見える立場とのギャップにどうしたらいいかわからないような不安を覚えたものだ。

無論、私が、自分で進んでどんどん本を読んで勉強すればよかったのだろう。問題意識を若いころからしっかり持っている人は日本にもいくらでもいるし、そういう能力のある人たちは、自分で自分自身を鍛え、立派な研究者になっている、と思う。が、そういう人は全体の中のどれほどだろう。

今、日本には、大量な数の「大学生」がいる。猫も杓子も「大学」進学へと追われ、人生で一回「大学生」になれば、まずはひと安心、ということらしい。が、これらの「大学生」という名前を着て歩いている日本の若者たちの中に、国内外の外国人学生と出会い、議論を持ちかけられたり、意見を問われたりして内心平気で応答できる大学生がどれほどいるだろうか。教養のない学生、将来設計のない学生、動機付けがなくなんとなく在学している学生、でも、そうした学生が大量にいるのは、決して彼らのせいだけではないと思う。

育ちたいのに育ててもらえない子供たちの不幸の責任は誰に問えばよいのだろう。

 
 学校教育に関心のある日本の人に、よく「オランダの教科書というのはどんな内容ですか」と聞かれる。

 「オランダの小学校では、今ほとんど教科書をつかっていないのですよ」と答えると、一瞬、「えっ」というような呆気にとられたような表情をされるのが常だ。


 かてて加えて、私が、「オランダの学校教育制度では、教員や学校の自由裁量権が大幅に認められていますので、、、」などという話をすると、聴いている方は、ますます困った表情になって、やはり、日本の教員にはオランダのような学校教育で教科書も使わずに自分の考えで教えるなんて力はないだろう、というようなことを思われるようだ。


 オランダの教員が、日本の教員に比べて特に優れているというわけではない。日本の教員には、自由裁量権を発揮して学校で生徒たちの指導にあたるためのな多様な「道具」「選択肢」が与えられていないだけだ、と思う。オランダの教師たちだって、子供のニーズに従っていちいち自分で教材を作っているわけではない。そんな時代があったかもしれないが、それはもう30年以上も前のことだ。


 オランダの小学校では、子供たち一人ひとりに配布される「教科書」というのは実際ほとんど見られない。それは、人間の教育というものは、一冊の教科書にまとめられた、文字やせいぜい図表による情報だけでやるものではない、という合意が、教育界に行き渡っているからだろう。


 オランダでは初等教育法に基いて、「中核目標」の中で、小学校(4歳児から8年間)で教えるべき教科として、次のような科目を定めている。

オランダ語、フリージア語(フリースランド地方のみ)、英語、算数・数学、人類と世界へのオリエンテーション(地理・歴史・社会・技術・環境・保健・健全な講堂・理科)、体育、表現力発達(図画・音楽・遊戯・言葉の発達・体動)

しかし、これらの科目を、どのような形式の授業で、何を使って教えるのかについては、学校と教員の自由裁量権が認められている。


 さらに、「中核目標」で定めた教科の種類は、最低限度義務付けられた、授業時間数の約7割を使って行われるもので、残りの3割では、各学校がその特徴を活かして、それぞれが重点を置いた教育矢課外活動を行うことが認められている。


 実際には、これらの教科学習や、それ以外の部分での学校の教育活動に使われる道具となる教材は、100%民間の創意工夫によって作られている。学校で使われる教材は、民間の教科書会社のほか、各宗教宗派ごとに作られた教育協会の専門部門、各種オールタナティブ教育協会、特定の教育方法に基いた教材制作会社、大学等の教育研究機関の出版物、博物館など文化施設が作った青少年向けの出版物、市民団体の製作した教材、など、実に多岐に渡る製作者によって作られている。


 こうした教材は、日本の学校で見られるような「教科書」の体裁をしているものはごく一部で、教員が子供に対して教室で行う、一定のテーマ・学習目標に関係したお話の例、子供たちに与える課題、共同作業の進め方とそのための道具リスト、教室で使うポスターやカード類、遊びながら学ぶゲーム教材、よく理解できない子供のための特別指導のアイデア、などを網羅した、いわば教員のためのマニュアルブック、教員の指導の後に子供たちが自立的に学習する際の課題集、ドリルブック、調査研究のための資料集、CD、教室の備品となる、子供の理解を助けるための副教材・資料集・辞書類などである。


 日本のような教科書検定の制度は全くないので、教材開発者らは、教授・学習過程をどのように企画するかについて、自由な発想で常に新しい課題に取り組みながら数年毎に新しい教材を生み出している。


 だから、教員の自由裁量、といっても、結局のところは、こうして様々の立場の、様々の団体が生み出している教材の中から、現場のニーズに合ったものを、選んで取り入れる、というのが現状である。(無論、学校生活では、授業経営だけではなく、それ以外の教員と生徒の関わりにおいて、専門的な訓練を受けた教員の自由裁量が求められることはいうまでもない。)

 これまでにも私は、いろいろなところで、教育サポート機関の役割について述べてきた。教育サポート機関の職員の仕事もまた、実は、このように、教材市場に多岐にわって存在している教材の特徴や利点を、現場の教師にわかりやすく伝え、選択のためのガイダンスをすることにある。

 それでは、公教育提供と質管理の責任者である国は、教材の質の管理のために何をしているのだろう。

70年代、一斉授業や画一教育が批判されて、これに代わる「個性の重視」「社会性の発達」を重視したオールタナティブ教育が急激に普及した時、国は、これら各種のオールタナティブ教育の関係者の中から、国庫負担で研究者を雇用した。これらの研究者は、国から給与を得て、教材開発や教員研修事業に取り組んだ。こうした研究者の取り組みが、民間教材開発業界に影響を与えたことはいうまでもない。

さらに現在、国は、カリキュラム研究所(SLO)という独立法人に対して、国内で現在入手可能な教材のすべてについてのデータベースを作り、同時に、独自の教材開発部門を置いている。つまり、国は、「検定」によって教材に合否を下すことはしないが、民間主導で開発され学校現場という市場に送り出される教材について、一つひとつその内容や方法の特徴について、独立の立場からまとめて、それを公開することによって、市場の透明性を高め、市民(学校・教師・保護者)の判断に委ねている。学校や教師は、独自の判断で教材を選び、保護者は、学校を選ぶことができるからだ。

ちなみに、このSLOのデータベースのあるサイトを覗いて見よう。SLOのデータベースには、現在、初等教育・中等教育・特殊教育・職業教育・成人教育の分野にわたっておよそ45千点の教材のデータベースを作っている。

初等教育の教材の検索カテゴリーは以下の様なものである。アルファベット順に並んだカテゴリーをそのまま訳したものなので、系統性は欠くが、試みに、ここに上がっているカテゴリーを、一度ゆっくり眺めてもらいたい。



地理
視聴覚発達
保健・衛生指導
ドラマ
救急処置
英語
表現活動
哲学
思想史・倫理
歴史

宗教
情報・コンピュータ
読み
体育
社会的態度
運動能力
音楽
自然
自然と環境
(第2言語としての=外国人のための)オランダ語
オランダ語
算数・数学
書き
社会情動発達
社会的発達
社会的能力
遊戯と体動
技術
絵画
ワールドオリエンテーション
感覚発達


さらに、これらの教材の種類分類を見ると、以下のようになっている。

背景情報
地図
報源       
テーマ別コース
試験準備
音響教材
副教材(理解を助けるための教材)
情報・ドキュメント集
コピー教材
生徒の習熟度モニター・システム
教材分析
教材目録
読書シリーズ
歌集
教育方法
参考書類
ドリル集

実習教材
特別支援指導教材
ソフトウェア
遊戯例
教科書
テーマ別教材
雑誌
テスト集
専門書
視覚教材
ウェッブ教材
辞書

日本のお仕着せの無償・検定教科書は、民間の創意工夫を利用していないし、現場との密着感がないので、いかにも想像力を欠いている。増してや、情報がこれだけ溢れている現代、文字と図表による情報だけを網羅した教科書ではなく、「知識や技能をどう子供たちに身につけさせるか」ということをもっと深く追求した「方法」の開発が必要なのは言うまでもない。

 無償で安いのは結構だが、内容も貧困ならば、百害あって一利なし、といえなくもない。無償教科書を作る費用を利用して、各種の教育方法の専門家に資金を与えて教材開発を奨励したらどうだろう。現在、毎月何万円もの金を払って塾に通わせている保護者たちは、特徴のある教材を使う学校が出てくれば、そこに子供を送るだろう。国のデータベースが各学校で使う教材の内容について何らかの情報を公開していれば、保護者自身で判断することができる。学校が、数年間に渡って備品として備える教材を購入する予算があれば、子ども一人当たりの教材費はそれほど高くなくても済むはずだ。現に、オランダの学校では、毎年子供一人当たりに支払われる教育補助金の中から、こうした教材を購入している。

学校は、良くも悪くも社会の現状を映し出す鏡である。社会に溢れている情報には、子供たちも日常曝されている。学校から、一定の情報を締め出すのではなく、現実に存在する情報を、子供たちに理解できる形で整理し説明してやること、また、子供と共に考えることも大人の役割なのではないか。そう考えると、教材のあり方について、おのずと考えさせられることは多い。

日本の学校の教科書は、教員の自由裁量権を阻んでいるだけでなく、日本の次世代の知識や技能の開放性・発展可能性を著しく妨げている、実に前近代的な産物であると思う。

来年の夏大学に入学する予定の娘に付き合って、大学のオープンデーを訪れている。さすがに、小学校から「多様性」の豊富な選択肢を用意しているオランダだけに、大学もまたそれぞれ特徴のある教育をしており興味深い。

 また、高校生(大学・高専準備コース=VWOとHAVO)には、大学や高等専門学校(HBO)の学部・学科ごとの教育内容や特徴をリストにし、1年間のオープンデーを一覧表にした分厚いガイドブックが配られる。

 大学のオープンデーでは、学部紹介のスタンドで資料が配られたり、質疑応答の機会が得られるほか、学科紹介、在学生のパネルディスカッション、隣接学科間の違いなどを30分ずつのレクチャーにして高校生や保護者を対象にプレゼンテーションを行っている。

 オープンデーのほか、実際に大学生がやっている実習現場を見たり、講義に参加したり、また、数日間にわたる高校生向けのオリエンテーション講義なども催される。

 これらの催しは、普通は週末に行われるが、週日であっても、高校生は学校に届けを出して参加することができる。高校卒業資格の条件として、このようなオープンデーなどに参加して参加報告を提出することが義務付けられている。一回の大学訪問が2単位、将来目指す職業に関連した職場の一日見学2単位、指導教官(生徒自身が選ぶ)との進路相談1単位、といったかたちで、高校3年の間に40単位を取得することが、高校卒業資格の条件のひとつになっている。

 オランダの大学は日本の大学のように、ランク付けによるピラミッド構造を持たない。入学登録は、国内の全大学への入学登録をIBという機関が一括して管理している。授業料は一律、高校の所定の卒業資格を取っておれば大学は自由に選択できる。(ただし、医療系のみ、許容量に限界があるため、高校の成績が8点以上であれば無条件入学、それ以下の場合はくじ引きとなる。)

毎年、公的な評価機関がそれぞれの大学の教育の質について評価するだけでなく、いろいろな団体が、学生による評価、研究者自身による評価などを発表している。学科ごとの質評価は、したがって毎年変動しており、高校生や保護者の進路選択の重要な材料になっている。

 確かに、由緒ある大学、設立時の理念がはっきりしている大学、などといった伝統的なイメージはある。しかし、入学試験がないために、競争率の高さによるランク付けがなく、学生たちは、自分が好きな大学を選んでいる。

 そしてそのおかげで、大学は、否が応でも特徴のある教育・やがて学生らが就職していく労働市場からの評価などをも十分に考慮に入れた質の高い教育をせざるを得なくなる。学生が集まらなければ、研究費は削除され、実際、人員削減などが起こるわけだから、オープンデーでの力の入れ方は尋常ではない。そういう意味では、大学教育も小学校や中学校の学校選択と原則は同じである。

(ただし、大学の研究資金に対する政府補助金はこの10年余り減少の一途を辿っており、研究者がオープンデーなどの雑用に終われて研究に集中する時間がない、と苦情を述べている。今の日本の大学がおかれつつある状況をオランダの大学はすでに経験しており、こうした競争が弊害を生んでいることも実際には否めない。)



 さて、こうしてみると、同じ学部といっても、3つの大学を訪れれば、実際に3つの異なる教育を行っているのがよくわかる。カリキュラムの作り方が違う、理論と実習のバランスが違う、隣接学科との分化の仕方が違う、研究指導法が違う、外国の大学などとの交流のプログラムが違う、などだ。そして、確かに、伝統や設立の背景が、大学教育の姿勢にありありと現れているのが実に興味深い。高校生にとっては、このような教育・研究面だけでなく、その大学のある街の雰囲気、種々の学生クラブや学生の活動、大学の建造物の様子なども、おそらくは選択の際の重要な要件になっているのではないか、と思う。

(特徴のある大学の例として、マーストリヒト大学について別の記事で少し詳しく述べた。参照していただければ幸いである。)
マーストリヒトは、オランダの東南部、ドイツやベルギーの領域に突き出したリンブルグ州にある。オランダ国内では辺境に位置するが、ヨーロッパという文脈からすると、ベルギーやドイツとの国境に近い国際性豊かな町である。

 ここにあるマーストリヒト大学は、1976年に設立された、オランダ国内の大学の中では最も若い大学だ。設立以来、地理的位置による国際性を強調すると共に、PBL方式というユニークな教育法を採用し、発展させ、成功を修めてきた。

 04年には、「高等教育選択ガイド」(Keuzegids Hoger Onderwijs04/05)と文科省の「知識教育の一覧」(Kennis in Kaart)で、いずれも国内ナンバー1の大学と評された。前者は、研究プログラムや施設、将来のキャリア可能性などの視点から学生や外部研究者が評価したもの、また、後者では、質評価基準の11%で「卓越」という評価を貰っている。

 そのマーストリヒト大学ご自慢のPBL方式について、大学訪問で聞いた説明と、大学のサイトでの紹介などから集めた情報を少し紹介してみたい。

 

 PBL方式は、主として、学生に、「自立性」、「起業精神」、「問題解決への指向性」を養うことを目的に取り入れられたものである、と説明される。その内容は、基本的に個別研究と講義とから成る。

 学生たちは、大学に入学するとすぐに、10人未満の小グループで研究活動を始める。学科ごとに、また、そこでの指導段階ごとに、いくつもの「事例」が用意されている。「事例」は、実生活の上で生じる問題を短く表記したものである。これを、学生たちは、まず、小グープのディスカッションで取り扱う。その「事例」で取り上げられている状況の中に、専門研究の立場からして、どのような要素に注意すべきなのか、これらの要素の中から、問題点となる課題を抽出し、そのテーマにしたがって、さらにグループでブレーンストームを行う、といったプロセスだ。

 小グループでのディスカッションは、それぞれチューターがつき、学生らのグループディスカッションのプロセスを監督すると共に、ディスカッションのレベルをモニターしながら、必要に応じてコメントを加える。

 こうして、学生らが自ら「事例」の中から発見した問題や課題について、今度は、非常に充実した資料センター(図書館+ビデオコレクション+コンピューター)で個別に自己研究し、レポートを提出する。チューターがこれにコメントを加える、という方式だ。

 こうした「事例」の数々を科目ごとに毎週毎週こなしていく、というものだ。もちろん、「事例」は、一定の教育課題として定められたテーマに沿って慎重に企画・用意されたもので、大学教育は、こうした「事例」研究のほかに、理論についての一般講義や一定の技能習得のための実習などを並行させている。



 娘と訪れた同大学の医学部のオープンデーでも、このPBLのデモンストレーションが行われた。

 

講堂の前に医学部の1年生が8人並ぶ。前方のスクリーンにひとつの「事例」が映し出される。

「19歳の女子学生のケース。この女子学生は、前日遅くまで学生パーティで外出した。その際に、アルコール入りの飲料水を数本飲んだ。翌朝、起きてみると頭痛がひどく、上肢を上げ下げするのが重たく感じられた。いつものように近所のパン屋にパンを買いにいったが、自分の番が回ってくるまで列に並んで待っているうちに、気持ちが悪くなり気を失って倒れてしまった。店にいた人が気づいて救急車が呼ばれ運ばれた。」

という話が書かれている。

 8人の学生のうち、1人が議長になり、1人が書記となって板書する。(この役は、毎回交替するのだそうだ。)

 こうして、この「事例」の中に出てくる「要点」を学生が挙げていく。「要点」ごとの関係が整理される。それから、この事例の中の19歳の女子学生の症状について、考えられる限りの原因をお互いに出し合い検討する。症状や原因について、想像できる限りの、また、持っている知識の範囲での説明を試みる。この「事例」をきっかけに、調べるべきテーマがいくつか抽出される。


、、、といったプロセスを、学生らがチューターと共に実演してくれた。

 

見ていて興味深かったのは、学生それぞれの性格が非常にはっきり出てくることだ。同時に、知識を持っていることとコミュニケーション能力があることとは必ずしも同時に満たされていない、ということにも気づいた。



PBLでの小グループは、一定期間ごとに再編成されるという。そうすることによって、グループ内での力関係や、コミュニケーションの役割などにヴァリエーションが生まれることを狙っている。実生活における種々のタイプの人々とのコミュニケーション能力の発達が意図されている。

 

医学部の場合、こうした、「事例」に発して個別研究をしていく、という研究形態が、全体の約7割を占めているそうだ。共通の基礎知識のための講義は全体のおよそ3割だという。また、1年生から、徐々に病院などでの現場見学が始まり、その量は徐々に増して、5年間の基礎教育を終えると、インターンとして病院で実習をする。



医療はチームワークだ、と学科の先生が言う。また、医者は患者とのコミュニケーション能力を必要とする、とも。PBLでのグループディスカッションは、そうした、自分のコミュニケーション能力を検証する大変よい訓練の場になっている、と思う。

そうしたコミュニケーション能力は、医療に携わるものに限らず、世の中のありとあらゆる職業に必要とされるものだろう。自立性、起業精神、問題解決能力に加え、PBLは、学生の社会性の開発に非常に役立っているのではないか、と思う。



マーストリヒト大学のPBL方式は、現在、徐々に、国内外の大学で採用されつつあるという。開発途上国援助の一環としての、現地大学への協力でも、PBL方式が輸出されている、と聞く。

また、大学の自由化、市場原理による大学間競争が進んだオランダで、マーストリヒト大学は、PBL方式の経験を活かし、外国の大学に様々の形で、PBL方式の情報を提供する事業も行っている。関心のある人は同大学の関係サイトを参照されてみるとよいと思う。   

http://www.unimaas.nl/default.asp?template=werkveld.htm&id=3A5J335QP77T1233G147&taal=en



70年代における初等・中等教育での「個別重視」教育は、大学でもこのような形でPBLを生んだといえるのではないか。



日本の「画一一斉教育」の前近代性が本当に問われる。
その1で述べた「習熟進度のモニターテスト」の管理とその結果についての対策の仕事は、ケア・コーディネーターの仕事の一部でしかない。

産業化と都市化が著しく進んだオランダでは、日本と同じように、これまでは気づかれることのなかった子供たちの学習を阻害する様々の要因が見出されるようになった。身心の先天的な障害だけでなく、家庭の事情や育児環境、また、移民の場合に問題になる言語や文化に関する環境などに、学習を阻害するいろいろな原因が見出だされるようになってきている。また、同時に、これもおそらく日本でも進行している傾向であると思われるが、かつて家庭や地域が持っていた子供を養育する力が失われ、養育機能が専門機関に委託され、また、その機能が分化してきているという実情もある。

そんな中で、ケア・コーディネーターは、単に学校の中での(認知的)教育活動の一部を負うものとしてではなく、子供が一日の大半を過ごす学校をベースにして、各子供に必要な、特別な支援が何であるかを明らかにし、その支援を専門に行う外部機関との連携、また、親との連携をして、子供の発達ができるだけスムーズに、また、最善な形で行われるように調整監督する役割を負わされているようだ。言い換えれば、「養育」という、元来は親が果たしていた役割が制度化された際の、種々の関係者や機関が関与する子供の養育・教育のネットワークの中心にいてこれをコーディネートする役割を果たしている、といえるのではないか、と思う。

ケア・コーディネーターの仕事として具体的に挙げられているのは以下のようなことである。

1.福祉ケアに関する子供のデータを集め、管理する。

2.子供の発達記録を管理する。

3.子供と話し合い、これを記録管理する。

4.診断・観察・調査を実施する。

5.子供が所属する学級内および学級外での、当該の子供の持つ問題点に対する対策計画を企画する。

6.福祉ケア資料室を管理する。

7.特別支援を必要としている子供のために学校と親、また、外部機関との接触を潤滑化させ、これを監督する。

8.子供たちが必要としている追加的な支援を与える。

9.学校の同僚(教職員)の相談相手となる。



上の例は、ある学校のケア・コーディネーターの仕事の一例であるが、現在、すべての小学校に設置を義務付けられている福祉ケア担当教師の仕事の大要は、ほぼ上のような仕事の範囲を持つものである。

 前の記事(その1)で述べた、習熟進度モニター制度は、上の仕事の中の1および4の一部に過ぎない。子供についてのデータは、このモニター法だけでなく、子供の年令や子供の持つ問題の質にあわせ、他に、種々の心理テストや観察のためのリストなどが用意されている。地域の教育サポート機関(OBD)にもこうした資料がふんだんに用意されている。

 5に挙げられる、外部機関には、このOBDのほか、児童福祉施設、運動能力矯正士、言語矯正士、理学療法士、校医、さらに、地域の特殊教育校などがある。

 数年前より、オランダでは、「もう一度いっしょに普通学校へ」(WSNS)政策と称し、軽度の障害児が普通の小学校へ入学し他の子供たちに混じって学習することを薦めるようになった。また、「リュックサック」政策といって、障害児一人ひとりの障害の種類を判定し、その判定に基いて、普通児に与えられる教育補助金のほかにさらに追加補助金を、子供一人ひとりに「背負わせる」(リュックサックに入れる)という形で、個別の対策をすることが出来るようになった。特殊教育の学校に一括して補助金を出すのではなく、個別に補助金を出すことによって、子供は、自分にとってより相応しい学習環境を選ぶための選択肢がいくらか広がってきた。

 そんな中で、特殊学校に通っている子供が、週のうち何日か普通校に来たり、以前は特殊学校に通っていた子供が、「リュックサック」に入れられた特別資金を使って普通学級の施設を拡充することで、他の子供と同じように普通校で学ぶ機会を得るようになった。弱視の子供のための特別の机や照明装置、また、特別仕様のコンピューターの導入などが例として挙げられる。

  反対に、子供が普通校に通っている間に、深刻な障害が発見される場合もある。そのような場合、これを出来るだけ早期に発見し、まずは、特殊教育の関係者による「予防緊急サポート=PAB」を依頼し、学校でその後の経過を監督するのも、ケア・コーディネーターの仕事である。



 いずれも、子供の問題を早期に発見してしかるべき対策を取るため、また、子供の生育環境としての学校・地域・家庭の連携を図るための統合的役割を果たすのがケア・コーディネーターである、といえる。



 ケア・コーディネーターのもうひとつの重要な仕事は、学習スピードの速い子供の発達支援である。スピードの早い子供を特定するためには、前述の「習熟進度モニター」が使われる。なぜ、よくできる子供にも「ケア」が必要なのか、一体どのような観点からの指導がなされるのか、以下は、ある学校のケア・プランからの引用である。

「学習スピードが速い子供も、たとえば批判的に物事を検討するとか、間違った時にどうするか、といったことを学ばねばならない。このために、この子供は時によってその子供に相応しい課題を得ることが必要である。

ここで重要なのは、私たちの教育活動の基本的な考え方として、子供が調和の取れた発達をしているかに留意することである。社会情動的な発達、運動能力の発達、認知的な発達とは、互いにバランスの取れたものでなければならない。

さらに、保護者と規則的に連絡を取り合うことも大切である。ここでの話し合いで、その子供についてどういう教育を与えるかを話し合い評価する。子供の教育計画に当たっては、次のような点を明らかにする。


● より深い学習課題、より幅広い学習課題、より早い課題の達成

● どのような側面における発達がもっと刺激されねばならないか。

● その子供は、自身にとって十分に挑戦的な課題を得ているか。

● その子供は、今も十分な動機付けを持って学習しているか。

● 学校はもっと別の教材や方法で子供を指導する必要はないか。」


 この箇所を読んでいると、「全人教育」という言葉を思い出す。

日本の学校では、できる子供をもっと伸ばすために何かをしているだろうか。また、できる子供がアンバランスな発達をしないように、誰かが教育学的な目で観察し、その子供の現在の発達過程に適した教材と方法で指導をしているだろうか
昨年日本に帰国した折、ある小学校の3年生の教室で見た光景だ。

 

担任の先生が黒板に、103−58の計算をさせている。1人の男の子が、黒板の前に呼ばれ、この計算の説明をするように言われる。「3から8は引けないので」といって、10の位にいくのだが、ここには0しかない。これからさらに100の位までいって、10個の10の位からひとつだけ借りてくる、という説明が出来ずに、この子供は言葉を詰まらせている。女の先生は、その様子を見ながら、どうしようか、と少し迷った様子で、「はい、それでは、他に説明できる人は」といって、教室を見渡す。30人ほどの子供たちが、みな同じように先生のいる黒板に向かって同じように座った教室で、何人かの子供が、なんとなく不安な表情で手を挙げる。手を挙げているのは明らかに少数派だ。その中のもう一人の男の子が前に出てくるようにいわれる。この子も、いざ黒板の前に立ってみると、やはり、10の位からひとつ借りてくるところをうまく説明できずに、またしても立ちすくんでしまう。



一体、この先生は、子供たちに何をやらせたいのだろう。仮に、ある子供がスムーズな説明が出来たとして、それで、この授業はうまくいった、この計算を「教えた」ことになるのだろうか。

初めの男の子は、紙の上では、この計算をうまくやって答えを出したのかもしれない。しかし、黒板の前で説明が出来ず立ち尽くした時、先生が他の子供に説明を求めた時に、何かしら小さな挫折感を抱かなかっただろうか。二人目の子供も、説明できるつもりで手を挙げたのに、実際にうまく説明できなかった時、決していい気持ちは味わわなかったことだろう。

もっと重大なのは、先生が「はい、それでは他に説明できる人は」と教室を見回した時に、手を挙げないで俯き沈黙していた残りの20人の子供たちだったのではないか。この子供たちを指導することこそ真の教育なのではないのか。たかだか103−58の計算方法を、どうして、すべての子供に理解できるように指導できないのだろう。

こうして、その日の課題を「学ぶ」機会を失われた大半の子供たちは、次の日、前日の「学び」をマスターしないまま、新しい課題に挑戦させられるのだろう。そして、そんな授業が明日もあさってもその次も続いていくのだとしたら、、、

不登校やひきこもりがいない方がどうかしている。わからないまま教室に座らされ、何も学べないで学校に通い続けることは、誰よりも子供自身にとって苦痛であるに違いない。

 

私は、こういう日本の学校の問題を先生の力量のなさひとつに帰するつもりはない。一人ひとりの子供の発達を全力で支え「教師」としての生きがいを持って仕事するために、教師は専門職者としての自由裁量権を持つべきだと思う。裁量権とは、カリキュラムや教材や学級編成や指導方法について、先生が、その場で適切だと思うことをするためにある程度自由に変更したり選択したりできる、ということだ。しかし、日本の学校教育制度の中に、一体どれほどの「ゆとり」が先生たちに認められているだろう。一つの学校の教師集団は、どれほど一体感を持って、一人ひとりの子供の問題に向き合っているだろうか。

また、「教育の専門家」であるはずの先生たちは、一体、教員養成で、うつむき黙り込んでしまう子供たちを指導する手法を誰かにきちんと教えてもらっているのだろうか。学校の先生たちは、現今の社会のいろいろな子供の持つ多様な問題を解決するために、新しい指導法や教材について学ぶ機会を得ているのだろうか。



● 一斉授業の問題点

 日本の小中学校ではいまだに「一斉授業」が主流であると思う。多様性が著しく乏しい検定教科書を使い、学習指導要領によって、指導法すら前もって細かく条件付けられている。「どの子供にも平等に」という意識が、すべての子供に同じ教材で同じ指導をすることを正当化しているようだ。しかし、「一斉授業」には問題が多い。どの子供にも平等な授業は、どの子供も持ち前の能力を完全に発達することができない学校を蔓延させている。

 一斉授業は、初めに述べた例のように、一斉に行われる指導や説明ではすぐに理解することのできない子供たちを置き去りにしてしまう。

 また、一斉授業は、わかる子供がもっと難しい課題に挑戦する機会を与えないので、これらの子供が、持っている能力を最大限に開発する機会を奪ってしまう。

 教師が教壇で一方的に子供に話しかけ、一方的に授業の流れをコントロールする一斉授業は、子供たちに否が応でも受身の姿勢を身につけさせる。一斉授業がうまく行けばいくほど、知らず知らずのうちに、子どもたちは受動的になり、自分の頭でものを考えたり、想像したり、もっと難しい課題に挑戦しようとか、身の回りの事象に啓発されて学ぼう、といった積極的で自発的な態度をいつのまにか摩滅させてしまう。その結果、子供たちは、自分の可能性を試してみること、そうすることで、自分の実力を知る、というかけがえのない経験をしないまま覇気のない大人になってしまう。



● 個別指導についての誤解

 一斉授業の問題について気づいている人たちは日本でもおそらく多いと思う。ゆとり教育や「個別指導」への関心はその表れであろう。けれども、「個別指導」の経験は、日本にはまだ少ない。そのために「個別指導」とはいったい何なのか、何のために個別指導をするのか、についての理解が、これを推進したいと思っている人々の間にさえ、合意として成り立っていないのではないか、と思う。 



オランダでも、かつては、教壇に先生が立ち、教室には、生徒らが皆先生の方を向いて座って受身に話を聴く、という授業が主流だった。そして、60年代、そんな古典的な一斉授業が多くの落ちこぼれの子供たちを生んでいるのだ、との議論が盛んに行われるようになった。「落ちこぼれへの抵抗」という報告書が出されたのもこの時代だ。

そして、それまで少数存在していたオールタナティブスクールへの関心が高まり始めた。ちょうどその頃、ドイツから伝えられたイエナプラン教育が注目された。教育行政に携わる文部官僚らが、オールタナティブ教育の熱心な信奉者や教育実践者の話に耳を傾け始めた。

やがて、いろいろなオールタナティブ教育の専門家が、国の職員として国から給料を得て、国の補助金で教育方法を開発し教育政策に提言する機会を与えられるようになった。そして、現在のオランダでは、「個別教育」の実践の度合いこそ、学校教育の質を測る重要な基準である、ということが広く合意として認められるにまで至っている。



ところで、「個別指導」とは何なのだろう。

はっきりいっておくが、「個別指導」は、一斉授業についていけない、時間をかけねばわからない子供の達成目標を、安易に低くすることではない。

「個別指導」は、個々の子供に見合った方法で、あらかじめ決められた教育目標を1人でも多くの子供に達成させるためになされるべきものである。「ゆとり教育」というのであれば、その「ゆとり」は、先生たちが、子どもたち一人ひとりの発達の度合いを注意深く観察して、子どもらにあった方法を適用することができるために、取り入れられてこそ、効果を発揮する。「ゆとり」といいながら、相も変わらず一斉授業を続けていたのでは、落ちこぼれはなくならない。



たとえば、こういう例はどうだろう。

みんなで山に登るとする。普段から歩くことの好きな子供、体力を鍛えている子供、たまたま体調がよかった子供は、誰の手も借りずにさっさと山を登っていくだろう。しかし、足の弱い子供はどうだろう、運動をすることよりも音楽や読書に興味のある子はどうだろう、その日たまたま体調を崩している子供はどうだろう。こんな子供は大きな子供が手を引いてくれたら、いっしょに頂上に行けるかもしれない。掛け声をかけたり歌を歌って登れば調子が出てくるかもしれない。支えになる杖やロープに頼れば上までみんなといっしょに行けるかもしれない。みんなから遅れても、励ましてやれば、人より余計な時間をかけて頂上にたどり着くかもしれない。

教育にはある目標があるのが当然だ。定められた「目標点」に向けて、一人ひとりの子供がその目標に到達できるように支援するのが教育だ。



また、個別指導は、子供を手取り足取り教えるためのものでもない。むしろ、正しい個別指導とは、子供の自主性を後ろから支え支援し伸ばすものでなければならない。個別指導をそうした効果を目的として行うためには、豊富な教材と、カリキュラムや授業形態の柔軟性が求められる。



植物の種を撒くとしよう。異なる植物を育てるためには、性質の異なる土壌や異なる水の撒き方が必要だろう。日当たりの具合だって、植物によって違う。

子供もまた一人ひとりユニークな存在だ。それぞれが、まだ、発見されていない、いろいろな能力を開発され十分な発達を遂げていくには、一人ひとりに異なるアプローチが必要なのだ。一人ひとりが自力で育っていける環境を整えてやらねばならない。

オランダの学校では、一斉授業をできるだけ廃して、授業を、子供それぞれに与えられる課題学習を自習形式で行うようにすることによって、わからない子供に先生が懇切に教える時間を生み出している。

一度の説明でわかる子供は、ワークブックを使って自習し、その答えを自分で確かめることができればよい。行き詰った時に、先生に質問をすることが出来ればよい。質問をする、という訓練は、子供が自分は一体何がわかっていて何がわかっていないかを知る訓練になる。教師がやらなければいけないのは、子供がその子供の現在の発達状態に相応しい教材を使って自主的に勉強する機会を保障すること、子供が質問に来た時に、その場でしっかりと受け止めて納得するまで懇切に説明をしてやることだ。

オランダのオールタナティブ教育の学校には、子供の理解を助けるための具体的な教材が多数用意されている(モンテッソーリ教育)。それぞれの子供が異なるスピードで目標に到達するために進度に従って教材を分化している(ダルトン教育)。子供同士の教え合いを薦め、わかる子供が、もっと自分の力を伸ばせるような教材を用意している。子供の手の届く距離にいて威厳や恐れを感じさせない教師が、わからない子供たちに、小さなグループで繰り返し指導できる体制を作っている(イエナプラン教育)。



一斉授業を止めて、先生たちが、一人ひとりの子供にしっかり向き合い、ありとあらゆる方法で指導できる環境をつくって欲しい。先生たちに「教育」をする機会と道具を存分に与えて欲しい。教育行政に関わる人々の役割はそれに尽きる、と思う。

以下は、イエナプラン教育のオランダへの紹介者スース・フロイデンタール女史が、学校教育において、これだけは満たさねばならないもの、として82年に「イエナプランスクール、生と働きの共同体」(蘭語)の中でまとめた八つの条件である。

同女史は、これをまとめるにあたり、創始者ペーターセンの助手をしていた二人の研究者H・Mieskes(「イエナプランと学校改革」(独語))とH・Doepp-Vorwald(「ペーターセンにおけるミニマム条件」(独語))の論議を下敷きにしている。

ここでは、オランダではじめて作られたユトレヒトのイエナプラン校の教師だったアド・ブース氏がまとめた「イエナプラン 歴史と現状」(1990)にまとめられたものから、紹介する。
 ブース氏は、この著で8つの条件のうち、1,4,5,について特に解説を加えている。

試訳的な段階で、今後、訳を精緻化していく必要があると思うが、学校教育のあり方、質を考える上で、非常に含蓄の深い言葉が並んでいる。日本の学校の現状を見直す上で、ある指標を与えてくれるのではないか、と思う。

現在の日本の教育改革が、「市場原理」によって、子供中心にではなく、国の側からの利害を著しく重視していることを危惧するので、急ぎ訳出して紹介したい。


1. 内包的な思考


この条件を説明するに当たって、ブース氏は、、このテーマについて66年に論文を書いたF・ブールウィンケル(蘭)の言葉を引いている。

「内包的思考というのは、私の安寧(生きがい・繁栄・幸福)は、他者を犠牲にすることによって、あるいは、他者無しに得られるものではなく、私が、その他者の安寧を目指し、かつ、その進展を望む時に始めて達成されるものである、という原則から出発するものである。


2.学校の現実の人間化と民主化


3.対話


4.教育学上の思考や手続きを人間学的立場から見ること


ペーターセンの実践からは、次のような考えを引き出すことが出来る。学校は、経済的、政治的、宗教的、あるいは、その他の利害によって、また、そのような利害を持つ集団によって道具と見られるべきではない。教育学上の利害以外のものは、はじめから「その子どもの利害」と一致しているものではない。


5.真正性


 (前の記事=この記事の下に続く、で紹介済みなので省略)


6.生と働きのための共同体の、共同自立的な秩序によって守られる自由


7.批判的思考(ものを自律的な判断によって見る力=リヒテルズ注)を目指した子どもの養育


8.創造性


スース・フロイデンタールという女性がいます。
ドイツのイエナの大学でペーター・ペーターセンが創設したイエナプラン教育を、1950年代にオランダに伝え、その後の生涯をかけてオランダにおけるイエナプラン教育の普及と発展に貢献した人です。

(彼女の夫ハンス・フロイデンタールは、ユトレヒト大学の数学者でしたが、後に、オランダ・イエナプラン協会の中で様々の教材研究グループなどが作られ、個人指導のための教材開発が進められたときに、現実の生活に即した算数の教材の開発に関わった人でもあります。)

この、オランダ・イエナプラン教育の創設者ともいえるフロイデンタール夫人は、それから20年ほど後、1982年に、教育における8つのミニマム条件、をまとめています。これは、後に、拙書「オランダの教育」でも一部紹介している『イエナプラン教育20の原則』の基本になったものでもあり、イエナ教育の理念を集約した基本原則、といってもよいかと思います。

この八つの条件すべてについては、後日機会があれば報告しますが、ここでは、その中のひとつ、『Authenticity(真正性)』ということについて考えて見ます。


これも、オランダで初めて作られたイエナプラン校、「ブルッフ」(ユトレヒト市)の教師となり、後に、イエナプラン教育の研究者・教育協会の責任的立場についたアド・ブースという人が、その著『イエナプラン 歴史と現状』(1990)の中で、この『Authenticity(真正性)』に関し、次のように説明しています。


彼は、authenticityには、二つの観点がある、といいます。ひとつは、教育者のあり方に関するもの。つまり、教育者であるグループリーダー(イエナプランにおける担任教師の呼び名)は、教師としてのその職業の後ろに隠れてはならない、教育状況に中でも、大人は、大人として『真正』のものでなければならない、すなわち、自らが、疑いを持ったり学んだり、子供と対話をする存在でなければならない、というのです。


また、もう一方の観点としては、学校の中で教えられるものは、真実の世界を、絵・教材・図式などによって代用したものである、これにより、子どもは次第に真正な世界への興味を失う、したがって、学校は、可能な限りにおいて、真正な世界との真正な出会いを求めるべきである。そこで、イエナプラン教育では、教師は、子どもに対して「真正な問いを発せよ」「現実問題に即した問題を与えよ」といっています。


第一の方向は教師の態度に関するもの、第二の方向は、教材の作り方・選び方、教科そのものの教え方に関するもので、この最も典型的な例が、イエナプラン教育では「ワールドオリエンテーション」という総合教育・プロジェクト学習に集大成されています。


今回議論したいのは、この二つのうち、第一の方向、すなわち、教員の態度に関してです。


大人として人間として子どもに対するときに「真正であれ」というのは、平たく言えば「ありのままの自分でありなさい」ということかと思います。この「ありのままの自分」であることが、言うほどに容易いものではないことを、私たちは経験を通じて知っています。たとえば、子どもの質問が大人の通常の知識を超えることはよくあることです。その時に親や教師が「いいえ、私は知らない、わからない」というのは少し勇気のいることです。が、オランダの先生たちはそれをやってのけます。

また、イエナプラン教育においては、在職の先生たちに、常日頃から「研修」を受け新たな技術や知識を取り入れることを勧めていますが、その根拠として、同協会で長く全国代表を務めたケース・ボット氏は、「教師といえども、常に新たに学び続ける存在であることを子供に対して示すこと、それ自体が意味のあることだからだ」と説明しています。


イエナプラン教育では、このように、教員も生徒も、はっきりとした「教える立場」「習う立場」ではなく、それぞれ一人ひとりの個人として関係を持つことが基礎になっています。そして、こうした人間の存在は、常に、人生という時間の経過の中で、学び変わる存在である、ということがその後ろにある大きな人間観です。


ところで、日本の学校の先生でも「ありのままで」といわれ、その理屈を納得しない人はいないでしょう。それが正しいことはある程度わかっている、、、。しかし、現実には、それが出来ない。なぜなのでしょうか。日本社会では、他人に対して「らしさ」を求める態度が優勢です。個人が、期待される役割を遂行することにたいして、個々の人間の集まりとしての共同体ではなく、漠然とした「社会」がコントロールを加えてきます。


現今の日本では、教師に対するバッシングが激しさを増しているように感じます。日本の教育が悪いのは「教師が悪いからだ」という議論が活発ですが、これもまた「らしさ」を求める社会的圧力ではないでしょうか。


もう一歩踏み込んで見ます。「らしさ」を求められるだけでなく、ひょっとして「らしさ」を自他に課すことを甘んじて受け入れている私たちに気づくことも必要ではないか、ということについて考えます。こういう社会では、「らしく」行動している方が楽なことが多いのではないでしょうか。心の中では何か違う、と感じていても、周囲が期待するように行動していれば問題が起こらない、自分の心に素直になって目立った行為をするよりもとりあえず長いものに巻かれていたほうが摩擦がない、、、つまり「甘え」です。


 「たかが学校の教師のクセに」「たかが母親のクセに」という有言無言の圧力が、私たちの言論の自由を抑え、また、私たち自身知らず知らずのうちに、他人の言論の自由を押さえつけていることがないでしょうか。(その反面、学歴・職歴・知名度が高ければ、言論に箔がつく)そして「どうせOOだから」といういいわけが、自分自身を自分の心に忠実にさせることから遠ざけているのではないでしょうか。

 そんな大人のまやかしが、子どもには見え透いているに違いない、、、。そして大人にだって欲求不満がないわけではないのだ、と嘯く。


 この欲求不満が、日本では、青春ドラマや現実離れの学園シリーズ、金八先生のような架空のイメージで発散されているのかもしれません。


 しかし、イエナプラン教育が「真正であれ」といっている「ありのまま」の人間は、到底、金八先生のような人間ばかりではありません。日本の学校を訪れた時に、黒板の前に立っている教師が、いかにも自分のパフォーマンスでクラス全体の子どもの注意をひきつけようと「演技」しているのに気づきました。これも、イエナプラン教育では良しとしません。


 家庭に病気の舅を抱えている教師、夫の仕事がうまくいっていない、夫との間がうまくいっていない教師、反抗期の子どものことで頭がいっぱいの教師、家族のいざこざを抱えている教師、などなど、皆生身の人間ですから、それぞれに人生のいろいろな場面に遭遇しているのが当たり前、というものでしょう。それでも、毎日、職業として教師の仕事をし子どもと関わっていく、、、。何も、個人的な問題を仕事場に持ち込め、とは言いません。

しかし、喜怒哀楽をありのままに表現できる、人間としての教師、それが、子どもにとって大事な存在なのではないでしょうか。毎日5,6時間もの間子どもと共同生活をする教師らに、「らしさ」を求めるどんな教育学的意味があるのでしょうか。
生きている人間として子どもと関わるほうが、人間として人間を育てる行為に相応しいのではないか、と思います。フロイデンタール女史が言う「真正性」とは、そういうことではないのか、と思います。自分を隠すのでもなく、かといって大袈裟な振る舞いをするでもない「ありのままの姿」で子どもに接するというのは、簡単そうで難しいことだな、と思います。


私は、今回訪問したイエナプランの小学校で、あるベテランの先生がクラスの子供たちを指導している姿を見て、「30人の子供にそれぞれ適切な指導をするには、教師としてやはり大変熟練が必要でしょうね」といいました。そうしたら、この先生は即座ににっこり笑って「そりゃあ教師だって人間ですから間違うことはありますよ。でも、子どもたちだって、それはわかっていることです。要は、間違っていたらすぐに正すことです。

間違いを指摘してくれた子どもにその場ですぐに「ありがとう」とさりげなく言える、そういう関係が、教師と子供の信頼関係というものでしょう」とさらりと切り返されました。こういう関係で学ぶことの出来る子供たちは幸せです。そして、こういう関係を子どもたちと築いている先生、そうすることをひとつの教育理念として許されている先生もさぞかし幸せだろう、と思います。

「子どもは『白紙』の状態で生まれてくるのではない。」これは今や教育学界の常識である。かつて、教育とは、白紙に字や絵を描いていくように一方的に子どもに対して働きかける行為と思われた時代があった。しかしそれが無意味であることは、教育に関わるものなら誰でも大なり小なり知っているはずだ。子どもは、それぞれ個別の能力と身体的あるいは社会情動的な条件という限界をもって存在している。現在の教育者の役割は、こうした、子供の発達を特徴付ける、あるいは、阻害する様々の要因を的確に発見して、それぞれの子どもにあった教育方法を適用していくことにある。しかし、日本の学校には、そのためにどれほど根本的な対策が用意されているだろう?

 オランダの小学校には、こうした問題に取り組むための特別要員を設けることが義務付けられている。そのために別枠で国の補助金が受給されている。学校によっては、この国の補助額では不足である、といって一般予算からさらに特別資金を割いてこうした活動を重視しているところもある。以前は、また、現在でも多くの学校では、一般教師が、特別の研修を受けるなどして、『生徒の福祉ケア』の役割を担う『主事』のような役職を担っている。しかし、最近では、こうした観点からの指導を重視し、一般の授業はやらずに、この仕事を専門に行う職員を置いている学校が増えてきている。



 60年代後半以来、子どもに対する個別指導や子供の間の社会性の発達を重視した、すなわち、それまでの画一的な一斉授業に真っ向から反対し、革新的な学校教育をオランダで普及させてきたイエナプラン教育協会に属する小学校では、現在、この仕事を専門に行う職員として『福祉ケア・コーディネーター』という専門の役職者を各学校に配置している。この『福祉ケア・コーディネーター』がどのような仕事をしているのか、3回に分けて報告したい。



<習熟進度モニター制度> Leerlingvolgsysteem(LVS)

 『福祉ケア・コーディネーター』がまずやらなければならないのは、全校で、子ども一人ひとりの習熟度を定期的に客観的な方法でモニターし記録することである。これは、現在、イエナプランの学校に限らず、文科省の指導で、すべての小学校で実施することが義務付けられている。客観的で信頼できる方法であれば、どのような方法を採用してもかまわない。2年に1度訪れるインスペクターが、学力の発達、社会情動的な面で問題のある子どもはいないか、その子どもに何らかの対策を施しているか、という質問をするが、その時に、このモニター制度によって記録されたデータを提示し、問題のある子供が発見されていること、問題を発見された子供に何らかの対策が行われたこと、その結果が記録されていること、を示さなければならない。これをやっていない学校は、「学校教育の質の管理」について「怠っている」と評価される。



 CITO、という、学力テスト・適性テスト・心理テストなどの、教育上の種々の種類の測定方法を開発している独立の機関があり、この機関が開発したモニター方法が、現在オランダの学校では最も広く利用されている。これは、グループ3(小学校1年生)からグループ7(小学校5年生)の子どもたちに対しておよそ半年毎に行われる短いテストである。テストといえば、日本人の多くは嫌悪感を感じるに違いない。特に、昨年末のOECDの学力調査結果で日本人の子どもたちの学力低下が指摘され、新自由主義の政府が『学力テスト』の強化を論じている現在、『テスト』という言葉には、一種のアレルギーを感じる教師や親も少なくない、と思う。

 しかし、ここで『モニター制度』として行われているテストは、このような『学力テスト』とは、若干意味が異なる。



 習熟進度モニター制度では、3分間でどれくらいの単語を正確に読み取ることができるかを測定したり、スペリングと発音の関係についての理解を体系的に測ったり、一定の算数・数学の理解を測ったり、その年令に期待される語彙数を用いた文を読ませ簡単な質問に答えを出して理解度を測定したりするものである。内容は、読み・書き・算の基本能力に限られる。CITOは、それぞれの学校がコンピューターを使って生徒の回答を入力すれば、個々の生徒のデータを分析して、全国平均に照らして5段階評価し、習熟度をパーセンテージで表せるような仕組みを提供している。テストは、それぞれの部門を一日で全部やるのではなく、個々の部門を異なる時期にわけて行うことになっている。そうすることで、前のテストの緊張や疲れが、次のテストの結果に影響しないためである。また、一般に、これらのテストは、子どもの習熟度の現状を正確に診断するためのものであるから、テストの前に特に勉強させたり訓練させたりする種類のものではない。



 たとえば、こんな子供がいる。短文を読んで理解するテストでは、過去4年に渡って平均以上のスコアを取っている。しかし、3分間で単語を理解する、というテストでは、これまで何年にも渡って最低のスコアしか取れていない。文章読解では、習熟度はいずれも100%以上なのに、単語の理解の方では、30から50%の間を低迷、しかも最近のテストほどその成績は悪い。

 これは典型的なDYSLEXIA(読解困難症)のケースである。日本ではほとんど知られていないので、訳語が適当であるか、やや不安があるが、DYSLEXIAの子どもは、たとえば、bとdの区別がつかなかったり、pとqの区別がつかなかったりする。アルファベットのそれぞれの文字が、スープに散らばったようにばらばらに見えて、単語の綴りを決まった順序で記憶することが他の子どもに比べて非常に困難である、などの問題を持っている。このようなDYSLEXIAについては大変研究が進んでいて、そのための特別教材も多い。一般に、こういう問題以外には知的には特に遅れていないのだが、文章を読むのに他より余計に時間が掛かるために、一般の学力テストや校内の普通の試験などをすると、時間不足のために悪い点を取ってしまう。そのために、現在では、DYSLEXIAが認定された子どもは、テストの時間を延ばしてもらう権利が認められている。DYSLEXIAのケースは意外に多く、20−30人の小学校のクラスに2,3人の子供がいるのが普通だ。

 習熟度モニター制度によって、このようにDYSLEXIAの子供が発見されることがある。問題がわかれば、(福祉ケア・コーディネーター)は、担任の先生などと相談しながら、その子どもに特別の指導をする時間を作り、指導計画を立てる。間違いやすい綴りなどを他の子どもより時間をかけて学び、他の子どもより時間を割いて文章を声に出して読む練習を繰り返す。易しい言葉ばかりだからといって幼児用の物語を聞かせていたのでは本人の興味がなくなるので、一定の綴りの単語を散りばめた、内容的には、それぞれの子供の年令に合わせた内容の物語の本などが作られている。

 

さて、これは一例に過ぎないが、こうした習熟度モニターテストを定期的に行うことによって、子どもの学習効果がどのように進展しているかを曲線で表すことができる。ある子供は、読みは右上がりに進展しているが、算数では、曲線に谷がある、ということがあるかもしれない。こうしたモニターをみることによって、それぞれの子どもの読み・書き・算のいろいろな分野での発達の状態がわかるため、各生徒のそれぞれの問題に応じて、強化指導の対策を取ることができる、ということだ。

 支援的な強化指導をしたり、警戒サインが出た時に担任の教師がその部分を特に注意しておくことが出来るように、個々の子どものモニターテストの記録はそれぞれのファイルに閉じられ教室の戸棚に鍵をかけて保管される。ファイルには、モニターテストの結果だけでなく、強化指導としてどの時期にどんな指導がなされたか、教員の観察で留意すべき点は何か、などの記録も閉じこまれている。この個別のファイルは、毎年新学年が始まる時には、新しい学年の担任教師に手渡され、それまでの経過が一覧できるようになっている。また、これは、あくまでも、教師の指導のための資料とするためのもので、「公開」は禁止されている。その子供の親との懇談会でも、親が特に要求したり、話し合いの資料として必要な場合を除いて、はじめから公表される、ということはない。子どもが小学校を卒業した後3年間は、中学校との連携指導のための資料として卒業した学校が責任を持って保管するが、3年経つと、情報がどこにも漏れないように破棄処分される。

 インスペクターは現在それぞれの学校の監査の結果をインターネットで誰もが見ることができるように公開しているが、こうした習熟度モニターテストの学校平均点を公表することは決してしない。インスペクターが監査するのは、その学校が、客観的な基準による習熟度のモニター制度を持っているか、その結果は適切に利用されているか、ということであり、その監査結果が公表されるだけである。



 子供たちの学校での発達を促す、というのは、こうしたきめ細かい個別の配慮があって初めて可能なのではないか、と思う。どんな子供も、学び育つために学校に行くのだ。

すでに読者には明らかであると思うが、習熟進度モニター制度や福祉ケア・コーディネーターの仕事の狙いは、学校教育の質の維持にほかならない。そして、学校教育の質がよい、というのは、落ちこぼれていく子どもたちを見捨てない、ということだ。落ちこぼれる、つまり、他の子どもと同じようについていく子供がいる場合に、どういう分野がその子にとって問題なのか、なぜ、その子どもはそういう問題を持っているのか、この問題を解決するためには、その子供に他とは異なるどういう指導をしなければならないのか、ということを学校が積極的に考え実行する準備がある、ということである。「福祉ケア・コーディネーター」は、この仕事を学校全体の中で組織していくことである。それは、担任の教師、これまで指導してきた教師、今後担任になる教師らと協議して対策を計画すること、強化指導のための教材を集めること、必要に応じて外部の専門機関や専門的な指導者に助言を求めること、また、保護者との話し合いを行い学校と家庭とで協力して子供の発達のための一貫性のある指導をするように計画すること、などである。



 現在の日本では、こうした精緻なモニター制度を考案したり、このモニター制度によって学校が何らかの対策を行うための補助金を国が支給することもないまま、単に、「平均的な」学力を挙げるために「学力テスト」をやりましょう、と叱咤激励しているのではないか。将来の日本社会を担う若い世代の全体の能力は、「学力テスト」を繰り返すことでは決して伸びていかない。保守政権時代に生徒の学力向上を目指して何回にも渡る「学力テスト」を導入し、しかも、その学校ごとの平均点を公表するという暴力的な政策をやってのけたイギリスが、決して子どもたち全体の学力向上に効果を挙げなかったことはよく知られている。むしろ、学校ごとの「学力テスト」は、学校をランク付けることにつながり、学区の自由選択制と合間って、イギリスでは学校間格差が非常に大きくなった、という話をきく。日本も、今、そういう間違った道に迷い込もうとしているのではないのか。

公開される「学力テスト」を導入すれば、ほうっておいても自分で何とかしていく、学習阻害要因の少ない生徒たちが頑張って平均の成績を上げるかもしれないが、多くの子どもたちは、「学力テスト」のたびに劣等感にさいなまれ、学習意欲を失うだけだろう。本当は、この子供たちが順調に発達できないのは、彼らの責任ではなく、そうした種々の不利な条件を持っている子供たちを支援するシステムがないからに過ぎないというのに、、、。



 無論、「福祉ケア・コーディネーター」の仕事は、習熟進度モニター制度の管理とそこから引き出される対策に留まるものではない。子供の発達を阻害するものとしては、CITOのモニター制度などでは測定することの出来ない様々の不利な条件が存在する。それは、家庭環境や心理学上の問題などに関係した社会・情動的な要因であったり、身体上の発達の不整合が学習に影響することもある。だからこそ、生身の人間である「コーディネーター」が必要なのだ、とオランダの教育者は言う。これについては、次回に詳しく述べる。



先週のNRC紙の記事によると、現在40の小学校が、IT技術導入組織SDGI社の協力を得て、各生徒の発達記録をインターネット上で保護者に報告する「パルナス・システム」の導入を検討中だ、という。その中の一校、ザウドランドのボンガード小学校は、早くも第1号として、来月から実施に入るのだそうだ。

 このシステムでは、保護者はパスワードを使って自分の子供の発達進度についての学校の報告をインターネットで見ることができる。単に試験や小テストの点数だけでなく、そのほかの、たとえば社会情動的な発達に関する情報についても随時更新された情報に保護者がすぐにアクセスできる、という。

 同校の校長の話では、「従来の通知表の成績は、子供の発達についてのごくわずかの情報に過ぎない。実際には、もっとたくさんの情報がある。私たち教員は、こうした情報を保護者と共有し協力して子供の指導にあたりたい。」といっている。

 さらにこの新システムでは、自主研究などの子供のレポートの類もデジタル方式に切り替え、これらに対して教師がどのような評価をしているかを保護者がパスワードひとつで見ることができるようになるのだそうだ。



 この話題を聞いて、ふたつのことを思った。

 まず、オランダの学校、特に小学校における教師と親の関係について。オランダでは、子供の教育に関して保護者が大きな責任を負うことが確立している。保護者の学校への関与も大きい。口を出して当然だと思われている。むしろ学校は親の協力を奨励している。家庭教育と学校教育とが補完的に子供の発達に関わることが前提とされている。というより学校教育はまず保護者の自立的な選択から始まる。

無論、保護者の関心の大きさは一様ではない。しかし、学校は絶えず親とのコミュニケーションを図ろうとしているし、たとえ離婚・別居中の、つまり子供が同居していない親でも、学校での懇談会には同等の責任で関わることが期待されている。だから、子供の発達に関する学校での出来事は子供を介して(通知表や連絡帳で)伝えられるのではなく、インターネットを利用してもっと緊密に学校と保護者との関係を確立させよう、という動きが生じるのである。

 もうひとつは、個々の子供の発達について一貫した観察記録を残そう、という努力が大きいことである。これは、現在文部科学省の指導として全国の小学校に義務付けられている。子供一人ひとりの発達を通年で記録したファイルを作らねばならないことになっている。(無論進学の際にむやみに使われたり、他の保護者に公開されることは絶対にない。)学年が変わったとき、担任が変わったときなどに、それまでの子供の発達の記録を必要に応じて参照することはしばしば行われる。こうした記録をつけることによって、現在その子供が順調な発達をしているか、発達が停滞していないか、を教師はフィードバックすることが期待されている。

インスペクターは、学校訪問時に、こうした「発達経過」に問題のある子供がないか、を教員に質問する。問題がある場合、学校はどのような対策をとっているか、を教員チームにたずねる。場合によっては、他校の例を引き合いに出して対策についてのアドバイスもする。

今回のインターネットによる通知システムの導入には、これまでは、こちらから働きかけなければ詳しい発達の情報を得ることができなかった親に対して、自分の子供の継続的な発達についてフォローすることを容易にするものである。



 システム開発者は、プライバシー保護の措置は特に慎重にしている、という。とはいえ、この新システムには教師の中にも保護者の中にもまだ不安を感じているものが少なくないのではないか、と思う。

 このインターネットによる教師と保護者の情報共有は、これから試行の段階である。オランダのやり方に少し通じている私としては、実にオランダらしいな、とも思う。「教育の自由」「学校の選択性」が確立しているこの国では、実験的な試みをやりやすい環境にある。悪影響が出れば、その段階で学校は止めるだろう。学校が止めなくても、保護者はいつでも子供をほかの学校に転校させるという選択肢がある。保護者は一般にわが子を保護して、問題があればとりあえずは苦情を言うことを辞さないし、そういう保護者に学校は慣れているから、「そうなればその時に対策を皆で考えればいい」と思っている。そうやって、この国では創意工夫や新しい試みが割合に気楽に始められ、そうしているうちに徐々に改善されていく。

 おそらく今回の40校の試みも、周囲の学校が注目しているのだろう、と思う。

 100の学校があれば100の教育がある、というオランダでは、よその学校の試みはすべて「実験」である。うまくいっているものは参考にしよう、という姿勢も大きい。お互いが切磋琢磨している。ダイナミックな制度とはそういうものだと思う。


「オランダの大学は入学試験がないのですか」とはよく受ける質問だ。日本人は、大学というものは、入学試験を受けてはいるものだと信じきっているのだから、こういう質問があっても不思議ではない。しかし、本当を言うと入学試験を課す制度の方が、少なくとも欧米先進国に関する限り珍しいと思う。

 オランダの大学には、確かに入学試験はない。しかし、大学進学準備校を出て、その課程を所定の成績で卒業したことを示す卒業資格を持っていなくてはならない。そのために、大学進学準備校では、学年ごとに成績を見て、必要なレベルの成績に到達していなければ容赦なく落第させる。その代わり、落第したからといって「落ちこぼれ」になるわけではない。大学進学準備校の課程についていくことができなければ、1年短い高等専門学校への進学準備コースに行く方法がある。それもだめなら、さらに1年短い中等・下等の職業専門校への進学準備コースに行けばよい。

 つまり、オランダでは、中等教育が、はじめから、将来の職業に必要な基礎教育を与えるものとして、いくつものレベルに分かれている。卒業資格を取るための達成目標が分かれているのだ。そして、これらのいずれかのコースで学び、所定の習得科目を必要な最低限度の成績で収めれば、「卒業資格」をもらえる。学校に行くのは、単に「勉強する」ことが目的なのではない。将来何かの職業に就くために勉強するのだ。だから、「卒業資格」は、ある職業に就職するための条件といってよい。だから、いったん自分の能力に合わせて「卒業資格」を取ったら、それに対して門戸を開いている上の学校に進学するか、それで通用する職に就くことを考える、という論理だ。その卒業資格が与える職業機会を不足と感じれば、その時にまた学校に行くことができる。学校は能力競争をするところではなくて、一人ひとりが、欲しい卒業資格のために勉強するところだ。そこでは、将来の職業が想定されている。



 だから、「大学に入る」というのも、オランダでは、「専門職者」になるための訓練の総仕上げ、という風に考えられている。大学は「競争」して、人を押しのけてはいるものではない。将来「専門職者」になりたいと考えている子供たちが、ある専門分野の知識を習得するために最終的な高等教育を受けるのが大学だ。入るためには、大学準備コースという中等教育の課程を修了しなければならない。このコースは、まだ、大学そのものではないけれども、いずれ大学で専門職者としての訓練を受けようとするもののための中等教育であるから、広い教養や情報処理や知的生活のためのいろいろな種類の技能を訓練する場所でもある。この課程は、最後に「卒業試験」を受けなくてはならないが、それは、課程修了証書の獲得の要件の50%でしかない。あとの50%は、そのコースで学んでいる間の学校で行われる試験の成績・プロジェクトの発表、小論文、課題図書の読書、議論や討論の力、などを学校の先生自身が総合的に評価することで得られる必修単位である。つまり、専門職者たるもの、同僚と競争してペーパーテストの点数だけ取ることにあくせくするようであっては困る、ということか、、、。日本では、大学入学後の教養部において、この目的での教育がなされていると思うが、オランダの大学準備コース6年間でみっちり鍛えられる読解力とか、情報処理能力、議論力、発表の力、報告書の書き方、などといった訓練によって養われている力は、到底日本の大学生一般からは期待できないように思う。

 同じように、大学への進学を(とりあえず)望まないで、高等職業訓練や中等職業訓練を受ける子供たちの教育も、将来就く職業を想定した上で内容が決められている。大学進学希望者に照準を合わせて知識を詰め込むことだけにあくせくするのではなく、将来の職業の程度にあわせて、知識教育と技能教育とのバランスが考慮されている。特に、医療・商業・農業・技術などの分野に分かれた中等職業訓練志望の子供たちのための中等教育では、それぞれの分野で共通に必要とされる実習科目の幅が広い。学校の中に様々の技術を学ぶための実習施設が設けられている。そうした中で、子供たちは、将来必要とされる人間関係・社会性についても学んでいる。これもまた、受験競争で振り落とされ落ちこぼれるだけの日本の子供たちには与えられない教育ではないだろうか。



 オランダとはいえ、エリートへの羨望がないわけではない。また、できる子、できない子の間に、多少の優越感や劣等意識も存在しよう。が、それでも、将来いつでも勉強したくなったらもう一度挑戦できるチャンスを残しながら、彼らは、とりあえず、それぞれの目標とする中等教育の卒業資格を取り、職業への道を歩んでいく。



 卒業資格を取るために勉強するのと、入試競争に励むのと大きな違いは、前者には、ひとつの決まった水準があらかじめ定まっているのに対し、後者には、「これでよし」といえる水準がなく、どんなにがんばっても試験で合格ラインを超えるまでは安心できないことだ。オランダの子供たちは、科目の課題をこなして単位を取得するために勉強している。すべての科目で合格点を取り、卒業試験に受かれば卒業資格は得られるわけだから、競争相手を意識して、果てしなく、闇雲にがんばらなくても、合格点が取れるところまで頑張っておけばよい。苦手な科目などは、合格点ぎりぎりの6点さえ確保すればよい、と思っている。日本のように、大学入学が入学試験一つにかかっていると、どんなに勉強してもまだ足りないのではないか、との不安が同じことを何度も何度も学ぶことを生徒に強制してしまう。が、オランダの卒業試験のように、資格を取るためにそれぞれの科目で合格点を取っていく、ということになれば、試験のその日まで、無限に繰り返し同じことを頭に叩き込む、という勉強をしなくてもよい。小論文の成績が悪かったから、プロジェクトの発表で頑張ろう、とか、今のうちにたくさん読書をしておいて時間を稼いでおこう、などといった調整を生徒たちがそれぞれにやっている。オランダ人の子供たちが決して日本の子供ほどに頑張らなくてよい、というのではない。大学に行く子供も、職業訓練を受ける子供も、同じことを繰り返す無駄をせずに、幅広い人間形成に時間を多様に費やしている、ということだ。
オランダの教育については、旧「オランダ通信」バックナンバーの『教育と社会化』のカテゴリーにも28記事収録しています。あわせてご覧ください。
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