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小学生の死刑賛否議論
今年の初め、ある小学校を訪問したら、偶然こんな光景に出会った。
小学校4−5−6年生の混合クラスだ。30人ほどの生徒が、先生とともに車座になり話し合いをしている。議題は、実は、死刑賛成・反対の討論会だった。そういえば、その直前の冬休みに、イラクでは、独裁者といわれたサダム・フセイン元大統領が処刑されたばかりだった。
オランダでは、もとより死刑は行われていない。オランダの法律では、死刑は存在しない。だが、そのオランダで、このクラスの先生は、子供たちに、死刑賛成か反対かについて議論をさせていた。赤いカードと緑のカードを渡し、死刑賛成は赤、反対派は緑のカードを上げて、自分の立場を示す。それから、それぞれ、なぜ賛成なのか、なぜ反対なのかについて、自分の意見を言う。理由を挙げていくうちに、子供たちは、死刑の意味についておのずと考えを深める。
先生は、生徒たちの議論のファシリテーターをしているが、各人の議論に、「いい」とか「悪い」といった評価を下すことはない。ましてや、「オランダでは死刑は廃止されているのだから、みんな死刑に賛成してはいけないね」などといった安直なことは軽々しく言わない。
そうではなく、子供たち自身に考えさせるのだ。子供たち自身が、<死刑>をテーマとし、それが認められている国、認められていない国があるという事実に触れること、なぜ、ある国では認められてほかの国では認められていないのか、について考えてみること、死刑を宣告されている人とはどんな犯罪を犯した人たちなのか、人間が人間を裁く際に、死を持って裁くことにどんな正当性が成り立ちえるのか、どんな犯罪であったにせよ、一個の人間の死を、国や社会といった力を使って正当化することができるのか、について考えてみること、そういう機会を与えようとしている。
子供たちの思考力・想像力を育成し、見慣れたオランダ社会を超えた世界の実情を垣間見る機会を与える、ということだけをとりあげても、教育的に大変に意義のあることだ、と思う。
こんな場面が、今の日本の学校にいったいどれくらいあるだろう。
カトリック校での世界五大宗教プロジェクト
それから三ヶ月ほどして、今年の春、今度は、別のカトリックの小学校で、こんな光景に出くわした。カトリック校だというのに、どのクラスにも、イスラム教やユダヤ教、ヒンズー教、仏教などについてのポスターや装飾品が教室に所狭しと飾られていたのだ。4週間あまりの時間をかけて学校全体でやっているワールドオリエンテーション(総合学習)の一環で、「世界の五大宗教」というテーマで取り組んでいる学習の成果なのだそうだ。五大宗教とは、キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、ユダヤ教、仏教のことだ。
低学年の子供たちは、これらの宗教にまつわる、行事、シンボル、聖なる場所、などについて、雑誌やインターネットなどから写真を探してきたり、切り紙・貼り絵などで、シンボルを形作ってみたりしていた。
高学年の子供たちは、五−六人ずつでグループを作り、五大宗教のうちから、それぞれひとつを選んでテーマにし、それについての情報を集め、地図や写真なども加えてグループごとに本作りに取り組んでいた。あるクラスでは、グループが6つできてしまったので、五大宗教に加えて「ヒューマニズム」を研究対象にすることになった、という。
たまたま訪れた私が日本人だったので、生徒たちは、日本人の宗教は何なのか、とか、どんな宗教上の習慣があるのか、とかそれは熱心に聴いてきた。
宗教や道徳教育についての最近の議論の背景
上のような教育は、オランダの学校ではこれまでにもそれほど珍しいものではなかった。時事について学校教育の中で話題として取り上げる、というのは、小学校の「中核目標」に明示されているし、教育監督局も、そういう時事に関する議論が学校教育の一環になっているかどうかを監査しているから、どんな学校にいつ行っても たいてい、そのときの時事についての新聞切り抜き、討論会、レポートなどにすぐに出会わす。
だが、宗教教育を、それぞれの学校がよって立つ宗教理念を超えて、より一般的で普遍的な知識として客観的に議論していく、というやり方は、どちらかというと新しいものではないか、と思う。なぜなら、オランダの学校は、「教育の自由」が確立した20世紀の初頭以来、大半が、独自の宗教的・非宗教的な理念を持った私立校として経営されてきており、したがって、学校の宗教的な立場は、常に、前提として明らかにされる傾向が強かったからだ。
今からわずか半年前、今年のはじめ1月に、オランダ政府のお膝元であるハーグ市では、毎年恒例の<冬の夜(winter nachten) 」国際文学フェスティバル>が開催された。時の話題をテーマにして、作家・評論家・研究者などが集まり、複数のシンポジウムや講演会を同時開催するものだ。毎年、市井の知識人らが大勢集まるフェスティバルだ。今年は、そのなかで、<Living Apart Together (棲み分けながらも共に生きる)>というテーマのシンポジウムに私も参加した。発表者は、日本・中国通で知られる作家・評論家のイアン・ブルーマ、両親が日本占領期のインドネシアからの引揚者である(反日)作家のアドリアーン・ファン・ディス、ハーグにある世界的にも有名な『社会科学研究所(ISS)』の宗教史家ヘリー・テル・ハール、インド人作家のパンカジ・ミシュラで、コーディネーターを勤めたのは、オランダとフランスで活動しているモロッコ出身の若手新進作家フアド・ラルーイだった。
そして、この時に、『棲み分けながらも』『共に生きる』ことを余儀なくされているものとして話題とされたのが、現在、オランダ(ヨーロッパ)にいる、宗教を異にするさまざまの集団(キリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒、自由主義者ら)のことであったことはいうまでもあるまい。
面白く盛んな議論が、会場からの活発な発言も含めて進められた。その中で、私にとって特に印象に残ったのは、宗教史家のヘリー・テル・ハールが「私たちは、これから、子供たちに対して、『宗教教育』(religious education)ではなく『宗教についての教育』(religion
education)をしていかなければならない」といったことだった。
実は、ヨーロッパやアメリカの実情に触れる機会が少ない日本人には想像しがたいことであるかもしれないが、『宗教』をめぐる社会的な不安は、現在、欧米の、いわゆる『西洋』先進諸国では、きわめて深刻で現実的な問題になっている。
だから、日本でも盛んになっている「道徳」見直し論は、欧米でも、それなりの文脈で、非常に先鋭化された具体的で深刻なテーマになっている。
2001年の9.11事件は、その意味で、時代を画す重要な事件であったといえよう。
9・11事件は、一方では、キリスト教理念によって成り立つ社会に対するイスラム教の価値意識からの挑戦状であったという意味を持ち、また、もう一方では、経済市場のグローバル化によって、先進キリスト教社会に蓄積されていく富と、後進イスラム世界の底辺に増える貧困とを背景にして、両者の国々の人と人の間の極端な不平等に対する、奪われ遅れた世界からの、暴力を行使した抗議だった、ともいえよう。
この9.11事件は、オランダでは、どんな波及効果を生んだのか。
2002年まで政権の座にあった労働党は、それまで、オランダの伝統に基づいて、移民に対しても寛容な、少し悪い言い方をすれば、放任的な政策をとってきた。労働者として移り住んでくる移民、政治難民として難を逃れてきた難民たちに、居場所を与えるばかりか、福祉予算を使って、他国とは比較にならないくらい寛容に移民を受け入れてきた。受け入れるばかりでなく、追徴予算を使って、オランダ語教育をはじめとし、移民たちの同化を積極的に支えてきた。
しかし、経済的に好況期が続いた2000年ごろまでは、誰の目にも問題としては映らなかった移民の同化問題が、やがて、不況期を迎えるにあたり、次第に表ざたに議論されるようになった。(この通信でも詳しく報告したピム・フォルテゥンの発言などはその典型だ)そして、その背景には、9・11事件をきっかけにした『イスラム移民は信用ならないやつらだ』という意識の広がりが明らかに影響を与えていた。
実際、かつては、移民の積極的な受け入れは、いずれオランダにもやってくる高齢化社会の時代に、若い労働力を提供して、国庫財政を支える力になるだろう、と考えられた時代もあった。しかし、移民たちは、多くの場合、教育にも労働市場においても、オランダへの同化に必ずしも積極的であるとはいえなかった。オランダ語ができない、しかも、出身国では社会の底辺部から押し出されてきた移民たちにとって、外国それも先進西洋社会への同化は必ずしも容易ではなかったはずだ。失業していても、職探しをせず、家族呼び寄せでオランダにやってきた妻たちは、オランダ語を学ぶ意欲も、オランダの社会に同化する努力もない場合が多い。都心部の学校には、90%以上が移民という学校が増え、しかもそれらの学校の保護者たちは大半が失業している、という事態が蔓延し始める。子沢山の移民の家庭は、失業手当のほかに、子を生むことで、児童手当を受け、生活費の足しにしている、とまでいわれた。
一方で、少数者とは言えども、オランダに同化し、エリートとしてビジネスマンとして成功していく移民がいるにもかかわらず、この時期、上のような低下層の移民たちのネガティブな面がひどく批判されたのは、グローバリゼーションによって経済競争が世界規模になっていく中で、特に、低所得の労働者たちの間に経済苦境を強いられる不満があったからだろう、と思う。
彼らが、一生懸命働いてやっと稼ぎ出す所得から差し引かれる税金が、『同化する意欲もなく』『オランダ語をしゃべろうという気もない』ましてや『どんなテロ行為をやらかすかわからない』『異教徒の』移民たちの失業手当や児童手当になっている、という意識は、そのころから、移民一般を、排斥し、差別する論調を急速に強めていったように思う。たとえ、それが『移民』をことさらにスティグマにしてしまうメディアや右翼政治家たちの扇動があったのだとしても。
こうして、キリスト教(やユダヤ教)を中心とする西洋的価値に支配された世界と、イスラムの伝統的な価値に支配された世界とが屹立する中、2004年11月、白昼、アムステルダムの路上で、映画監督テオ・ファン・ゴッホが、イスラム教徒と名乗るオランダ人の若者に暗殺された。『表現の自由』を絵に描いたような、これまでならば、単に「挑発的」といわれて済まされただけの行動をしてきたテオ・ファン・ゴッホが、まさか、路上で、犯人と目と目を合わせた対面状況で、胸に銃撃をうけるなどとは、9.11事件を知らない時代のオランダ人には想像もできないことであったに違いない。
しかも、銃殺されたこの映画監督の胸には、さらに、ユダヤ教徒であるアムステルダム市市長、イスラム教の出身でありながらモハメッド批判を辞さず、イスラム社会の女性解放のために急進的な自由主義思想を公に展開していたアヤーン・ヒルシ・アリなどの名を上げ連ねて、彼らの暗殺予告をした脅迫状が短剣とともに突きさされて残されていたのだ。
国会議事堂周辺ですら、厳重な警備を敢えて避け、政治家に混じって市民が闊歩できる『民主社会』『市民国家』のオランダを誇りにしていた市民たちにとって起こるべきもない目を覆いたくなるような事件だった。しかも、暗殺犯は、オランダの学校で教育を受けてきた青年だったのだ!!!
オランダの人々の<ポストモダンな>価値意識と、そのオランダに移り住んできた移民たちが、家庭や近隣や出身国の記憶として抱えている<前近代的な>価値意識との間に、どう超えようもない大きな溝があるらしいことが、徐々に明らかになっていった。
その意味で、このときのオランダの事態は、デンマークで起きた風刺画事件と、同じ質のものだった。
西洋人たちは、啓蒙主義の時代以来、キリスト教をも含め、宗教や王室の権威など、外からの権威的な価値意識でものを考えることを敢えてやめ、個々人が各人で善悪の判断をすることをよしとしてきた。それこそは、『良心の自由』の基盤であったし、個々人が、他の誰からも力による影響を受けることなく、自分の頭で批判的に善悪の判断をするという姿勢を生んできたからだ。それは、とりわけ、戦中・戦後世代のオランダ人に関して言えば、あの醜悪なヒトラーの時代の全体主義を回避する<人間の英知>としてもなくてはならぬものであった。
だが、その表現の自由・良心の自由の顕現には、退廃の影も付きまとう。西洋近代主義に基づいた選択の自由としての、女性解放、同性愛者の権利保護、といったものは、たとえそれが彼ら自身の間では議論し尽くされたものであったとしても、その議論を共有していない、つまり、まだ、前近代的な価値意識の中で暮らしているものにとっては、単なる退廃として映ってしまう。
バス停やビルに大きく張り出される女性のヌード、街頭で臆面もなく抱きあい、キスを交わし手を組んで歩く同性・異性愛者たち、おへそをむき出して歩く女の子、中学生から当たり前の性交渉、、、それは、常日頃からベールをかぶることを当たり前と感じているイスラム教徒の女性、同性愛は病気か犯罪といわれている人々、男性と目を合わせただけでもはしたないといわれているイスラムの女の子たち、といった文化の中にあっては、不道徳・退廃以外の何ものでもない。
オランダ人のボーイフレンドと付き合っていることを理由に、ムスリムの少女たちが、親族から折檻され、果ては、家族の恥をぬぐうためにと身内に殺されてしまったというような事件は、オランダにいる人なら、一度ならず耳にしたはずだ。
ポストモダンの社会を生きるオランダ人は、移民を『遅れた、表現の自由よりも暴力を行使する野蛮な人々』と見、また、家庭で日に五回の祈祷と伝統的な男尊女卑・権威の位階制の中で暮らしている移民は、オランダ人を『金のことしか頭にない、道徳心など微塵もない、摩れて傲慢なやつら』と見てしまう。
オランダ人がどんなにイスラム教徒の行為を民主社会の言論文化を知らない野蛮な『テロ』呼んでとみても、コーランを字義通りに受け入れる急進的なムスリムにとっては、西洋文化は、『テロ』をもってしても排すべき腐りきった消費社会の退廃なのだ。
イスラム移民を大量に抱えたオランダでは、社会不安は広がり、治安の課題が限りなく膨らんでいく。
シチズンシップ教育の義務化
だから、シチズンシップ教育のための教材や方法を提供しているハーグ市内にある教育サポート機関の専門家を訪れたとき、若い彼女が『私たちは、いつまでも警察官を限りなく街路に送るわけにはいかないのです。』といったのは、実に印象的だった。
学校教育が、こうした社会不安を解決するために何らかの役割を果たさなくてはならない、という意識が、徐々に広がっていったのは不思議ではない。
宗教も文化も、そして近代化の過程をも共有していないさまざまの人々が、共に市民として自律的に、かつ、協力して社会を作っていくために、学校は何をすべきか、という問題が、比較的短期間の間に、広く論議されるようになった。
そこまで、この国の治安問題は深刻になっているのだ、と思うと同時に、国の治安は、人から強制されて守るべきものではない、という、市民社会としての伝統の長いオランダ人らの覚悟のようなものを感じた。オランダは、ことここに及んですらも、決してパニックに陥ることなく、また、モデルを他国に求めるでもなく、ひたすらに、彼らが、歴史を通じて生み育ててきた『近代』の論理で、つまり、個々人の自律と自主的な社会参加を基礎にして、事態に立ち向かおうとしている。西洋人にとって『近代』とは、それほどに大きなものなのだ。
事実、2005年12月9日に発効し、翌6年、つまり昨年の2月1日より施行となった法律で、オランダでは、初等(小学校)教育と中等教育(中高一貫)で、『シチズンシップ教育』が義務付けられることとなった。これは、いわゆる、国語や算数といったような『教科』として行うものではなく、学校生活全体の組織の仕方の中で、また、生活指導や、さまざまの科目授業について横断的に企画されるものが意図されている。
とりわけ、『教育の自由』によって、学校や教員の自由裁量件を最大限に認めているオランダのことなので、この『シチズンシップ教育』も、それぞれの学校が、独自に方法を定めて、自由裁量によって取り組むもの、とされている。しかし、同時に、法律によって規定され義務付けられたものなので、教育監督局が、各校の実施状況について監督することになっている。
それでは、各学校に義務つけられたシチズンシップ教育の内容とは、何を指すのか。
教育科学文化省の説明によると、以下の3項目が、シチズンシップ教育の内容をなすものでなくてはならないことになっている。
1.生徒たちは、多様な共同社会の中で成長するものであるということを考慮し、
2.積極的なシチズンシップと社会統合の促進を目指し、
3.生徒たちが、自らの同年齢層の他の子供たちの異なる背景および文化についての知識を得るとともに、それとの出会いを経験することを目指している
それは、それはさらに具体的にいうと、
1.オランダおよびヨーロッパの行政制度と市民の役割についての大要
2.一般に広く認められた(宗教の差を越え、基本的な人間の価値観として、というような意味)価値観および規範を尊重して行動すること
3.オランダという多文化社会の中で重要な役割を果たしている思想体系を学び、異なる意見の人々に対して尊重の態度をとること
を学ぶためのもの、と展開されている。
だが、前にも言ったとおり、こういう目的のシチズンシップ教育を、どんな方法でどんな教材やテーマによって実際に子供たちを対象として展開するか、については、各学校と教員の自由裁量を尊重する、という考え方だ。学校教育に携わる人々が、創意工夫することへの期待がある。親は、そういう学校の中からふさわしいものを選び、そして、協力する。
しかし、学校にしてみれば、『自由』が与えられているとはいうものの、これまであまり意識して経験したわけでもない『シチズンシップ教育』というものを、果たしてどのように学校教育の中で展開していくべきか、について、不明瞭でまごつく場合も多い。まして、教科学習や生活指導、そして学校経営や学級経営に追われている教員には、じっくり教材や方法を研究している暇もない。
この法律の実施以来、各地の教育サポート機関、および、さまざまの教材開発会社などが、競って、新しい教材作り・アイデア作りを始め、ネット上でも、教育専門のサイトや教員サポートのサイトなどで、ありとあらゆるアイデア、教材、オランダやヨーロッパの制度についての知識・関連サイトへのリンク、などが広がってきている。わずか1年ほどの間に、この分野での教材やアイデアが、インターネットを通して溢れ始めた。
こういうあたりは、さすがに、学校の自由裁量権が高く、教材会社の自由市場競争がオープンに行われるオランダだけのことはあると思う。学校は、誰も上からの指示を待つのではなく、まずは、新しい法律の意図を、それなりに独自に教職員チームで話し合い、うまくいかなければ、教育サポート期間やインターネットにアクセスし、とにもかくにも、自分たちの方針を決めてかかる、というすばやさがある。
現実には、『シチズンシップ教育』の一部を構成するような教育は、すでに、オランダの学校でも行われていた。
たとえば、小学校低学年の生徒たちのための『社会情動発達教育』。これは、車座になって話し合うサークル対話や、共同学習、などの場面を捉え、各人の意見や感じ方をお互いに出し合ったり、子供同士が意見の衝突を経験したときに、どうそれを処理していくか、といったような指導だ。
また、性教育やケア科、歴史や公民科、時事をめぐる討論会などでも、子供の自己形成を助け、行動の場での社会性を育てる、という広い意味では部分的にシチズンシップ教育は行われてきた、といえる。
オールタナティブ教育の学校には、以前から、個々の子供の自立心の育成や、共同学習を通じての社会参加に関心が強かった。シチズンシップ教育の基本となる考え方はすでにそこでも見られたはずだ。
基本の価値観
しかし、これまでのシチズンシップ教育では、歴史的に自然発生的にゆっくりとした独自の近代化を経験してきたオランダ人の子供は前提にしていても、異なる文化を背景とした移民たちのこと、特に、近代市民としての自律的な行動や社会参加の態度といったことを、家庭教育や文化的な背景の中であまり明確に経験していない移民たちのことはほとんど意識されてこなかった。
他方、かといって、オランダ人の子供たちならば、みな、市民教育の理想的な環境を家庭に持っているという前提も、じつはとても危うくなっている。かつて、60年代に、市民意識が著しく高揚したときのオランダと違い、現在のオランダ人たちには、伝統的なキリスト教徒、あるいは、ユダヤ教徒、または、それに並ぶものとしてのヒューマニズムに基づく自由主義者としての倫理観は薄れている。日本と同様で、すべてを金に換算してしまう、消費行動ばかりが目立つ家庭、育児を学校と保育所に任せ、思慮なく高い玩具やゲーム機器を与える親が増えている。
実際には、オランダ人も移民も、限りなくアイデンティティの個別化や多様化を経験しているというのに、何かことが起こると『文化』の違いを言い訳に、無自覚に互いに疎外しあい、無理解に差別しあう、という環境が、この数年目立ってきていた。
オランダの教育科学文化省は、『シチズンシップ教育』の義務化と促進に当たり、どんな文化的背景の違いにもかかわらず、すべての人に共通の、民主的な法治社会に基本の価値観がある、といっている。そして、このいくつかの価値観について、小学生・中学生に指導していくための、まさに噛んで含んだような説明を加えている。
これを読みながら、私は、率直に言って、目が覚めるような気がした。人間存在の価値を、よくぞここまで、子供にもわかるように噛み砕いてくれたものだ、と感心する。
教育科学文化省の説明を、以下に、そのまま翻訳しておく。
(引用はじめ)
* 基本的な価値観とは何か?
学校は、自分の生徒たちに対して、どんな価値観を伝達するかについて自身で決定する自由を持っているが、同時に、私たちが共通に持っている価値意識の伝達に貢献しなくてはならない。これは、最終的に、人々やもろもろの集団を結合させる基本となり、それによって、お互いに相違を持ちながら、調和を持って共に生きることができるようになるためのものである。
表現の自由とは、自分が考えることを述べたり書いたりしてもよい、言い換えれば他の人の意見に反対の意見を言ってよいということを意味している。すべての人は、したがって自分の信念を説き広めること、言い換えれば、自分の意見を他の人に対して提示することが許されている。ただし、その際、法律を遵守していなくてはならない。
平等とは、人々が同等の価値を持つものであることを意味している。その際、人々がどんな考え方をするかとか何を信じているかということは一切問題にされない。人は、その人のものの考え方や習慣がその人自身の価値を決めるのに有効なものであると考える必要はない。ただし、他の考え方や習慣を持つ人たちを自分自身や自分が属している集団よりも価値が低いとしてはならない。
他の人への理解とは、人々あるいはさまざまの集団がなぜ一定のものの考え方や習慣を持っているのかについて理解しようを努めること、すなわち、その背景はなんなのだろう、とか、なぜそれは他の人にとって重要なのだろうと考えること、とを意味している。
寛容とは、他の人の意見や行動を、たとえそれが自分にはまったく同意できないものであっても、受け入れること、を意味している。また、寛容は、誰に対しても何らかの意見や何らかの行動をもつ猶予を与えることを意味している。もちろん、すべての人は、この点に関し、法律を遵守しなければならない。
自律とは、誰もが、自分はどういう人になりたいのか、どんな生涯を送りたいのかについて自分自身で決めることができるということを意味している。たとえば、誰でも、自分にとってどのような考え方やどのような信念が重要であるかを、自分自身で決める自由を持っているということだ。この点に関し、法律が遵守されなければならない。
不寛容の拒絶。不寛容とは寛容の反対語である。それは、他の人々やさまざまの集団について、自分が同意できないことについて、その人たちがそう考えたり行動したりしてはならない、とすること、また、誰もが一人ひとり何らかの意見を持ったり何らかの行動をする場を与えられる必要はない、とみなすことを意味している。
差別の拒絶。差別は他の人々や他の集団を蔑視すること、または、他の考え方や習慣を持つ人々に対してはそんなに多くの場を設ける必要はない、と考えること、あるいは、この考え方や習慣を場合によっては禁止されるべきであると考えることを意味している。」
(引用終わり)
愛国心ではシチズンシップは育たない
経済市場のグローバル化による経済格差の拡大、そして、消費行動に著しく傾いた人々の暮らしは、日本でも同様に見受けられる。家計負担を軽減するために、共稼ぎを余儀なくさせられる両親は日本にも多い。オランダのように、ワークシェアリングの慣行がなく、残業や休日出勤もまだ随所に見られる日本で、家庭の教育の力が急速に失われていることはとみに知られていることだ。
ましてや、オランダのように、子供の個別の能力・適性・テンポに応じて、教材や教育法を分化して、個別のニーズに合わせた教育を行う、という意識は日本の学校ではまだほとんど省みられていない。有識者を集めた教育再生会議ですら、そういう方向での議論は主流ではなさそうだ。
そんな中で、日本人一般の道徳意識・倫理観・民主的な社会での市民形成は、いったいどういう方向を模索しているのだろう。昨年の教育基本法改正でも見られたように、また、今年の教育三法の改正をめぐる強行採決を見ても、現在、いじめや不登校問題に無策であると見える日本の保守政治が進めようとしているのは、あいも変わらず「愛国心」による道徳心の回復、という単純極まりない楽観論だ。
だが、「愛国心」を訴えることで、日本の次世代の市民形成が安泰だ、とでも思う向きには、上に見てきたオランダのシチズンシップ教育の方向について、もう一度よく検討してほしい。
オランダで今真剣に議論されているのは、異なる文化的な背景を持った、しかも、近代化の過程を西洋人とともに共有していない、さまざまの社会から来ている子供たちに、「どうやって自分の頭で考え、善悪を自分自身で判断できるようにするか」(良心の自由の育成)「そうやって自分探しをし<主体>を身につけた子供たちが、なおかつ、お互いにお互いを受け入れながら、共同して社会参加をするにはどうしたらよいか」(社会参加意欲の育成)ということなのだ。
元来、民主社会とは、そのままでは、決して相容れることのない個々ばらばらの価値観を持った人々が、それにもかかわらず、法律の約束事に従って、互いの存在の権利を認め合って暮らす、ということだ。シチズンシップに期待されているのは、何か文化的な背景を理由に、それほどの困難もなく<同調>できるもの同士が、烏合の衆のように集まる、というのとは別の質のものだ。そうではなく、文化も宗教も価値観も、さらには、近代化の程度もまるっきり異なる、そのままではとても<同調できない>もの同士が、どうやって、互いを尊重して協力するか、に取り組み、<異なる>ものが積極的に<協力して>共同体を作り上げるための約束事を理解している、ということなのだ。
日本の教育で、<愛国心>を唱えていれば何とかなる、学校の儀式で君が代を歌い日本国旗を上げていれば、市民は育つ、と考えている保守政治家らの救いようもない楽観が怖い。
東京都民であること、沖縄県民であること、離島の住人であることと、日本人であることには、元来矛盾はあるべきではない。日本人に限らず、普通の人ならば、自分が生まれた郷土になにがしかの愛着を持つのは、人間として当たり前の感情だ。
経済市場のグローバル化に伴って、情報のグローバル化が進んでいる。異文化の衝突、西洋的なモダニズムと先進国でのポストモダニズム、そして、モダニズムを経験していない世界の多くの地域の人々の伝統とが、交流・交錯する時代になっている。しかも、人々は移動し、同じ出身国であっても、移動先の文化への適応の仕方、同調の仕方は一人ひとり異なる。世界のありとあらゆる地域で、人々は、個々ばらばらに、自分という一個の人間を形成し、アイデンティティを形成して、互いに同じ土俵を踏みながらも、限りなく多様に生き始めている。しかも、私たちが住む地球という星の存続すらが危うくなっている時代だ。
そんな中で、必要なのは、世界の、限りなく多くの人々が、自分の文化や価値観のみに優越感を抱くというような「独善」を断固廃して、自分が自分のアイデンティティを大切に思うのと同様に、他者のアイデンティティをも認めて、互いに場を認め合って生きる知恵なのだ。自己肯定・自己主張と同様に、自分の意見とは相容れない他者を受容し、他に耳を傾け、どこかで接点を見出し、自分の考えや立場を客観視できる人々だ。
日本の学校に、「愛国心」などはいらない。必要なのは、自分が生まれた郷土を愛し、国を愛するように、世界を愛し、世界の人々と、平等に渡り合っていくに十分なだけの、思考力とコミュニケーションの力を持った日本人を育てる努力だ。
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